悲鳴窟

怪談その他

すごい早口で『サラムボー』の話をする男

1. 2020年、ギュスターヴ元年

ギュスターヴばかり読んでいた。

なぜだかずっと敬遠していた『ボヴァリー夫人』を無聊にまかせて読みはじめたところ、あまりのおもしろさに吃驚した。

読み終えてすぐ、新訳が岩波文庫入りしたばかりの『サラムボー』を読んだ。ひっくりかえるほどおもしろかった。むかし読んだ『三つの物語』を読み返す。激烈におもしろかった。やはり去年新訳が出た『ブヴァ―ルとペキュシェ』を購う。これはラスボス、ゆっくり読もう。

ボヴァリー夫人』は、もはや聖典である。伊吹武彦、山田爵、芳川泰久三者の翻訳を枕頭に揃え置き、パラパラと目についた箇所を読んでいる。就寝前の儀式である。どの訳で、どこを読んでもおもしろい。

勢いのままに、関連本も読み漁った。特によかったものを三冊挙げる。

 

 

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そんなこんなで、寝ても覚めてもギュスターヴの一年であった。なにしろギュスターヴのことを考えない日が一日もない。

気付くと、Twitterのアイコンはギュスターヴの写真になり、十年ほど使ってきたハンドルネームも、いつしかミシバーヴ・ユヨシベールに変わっていた。というか実際にはわたしが「変えていた」のである。

わたしの首はいまや鎖で繋がれており、その先をギュスターヴがしっかりと握って離さない、どうやらそんな具合になっているらしい。

2. 『サラムボー』とは何か

そんなわけで、わりと長い付き合いの畏友ふくろう氏から本企画(海外文学・ガイブン Advent Calendar 2020 - Adventar)になにか書かない? とお誘いをもらってすぐに、これはギュスターヴのことを書くしかなかろうと思った。といっても『ボヴァリー夫人』や『感情教育』のことなら、さんざん書き尽くされている。

特に前者の場合、『ボヴァリー夫人』を読んだことのない人でも、ギュスターヴが言うところの「紋切型」として、ぼんやりしたあらすじを知っているのではないか。

罪と罰』といえば金貸しのばあさんを殺す話、『白鯨』といえばデカい鯨を追う話という程度に、『ボヴァリー夫人』といえばボヴァリー夫人が姦通する話と多くの人に認知されている。

それなら『サラムボー』はどうだろう。

いったいタイトルの『サラムボー』とは人の名前なのかなんなのか、そもそもどんな話なのか、これは意外と知られていないような気がする。

同じギュスターヴの作品でも、『聖アントワーヌの誘惑』なら、聖アントワーヌが誘惑される話だろうと予想がつく。

ブヴァールとペキュシェ』はすこしわかりにくいけれど、固有名詞らしきふたつのカタカナ語が並列の「と」で結ばれている。おそらくは人間がふたり出てきて、なにかするんだろうと想像できる。そしてそれは、たしかにそういう話である。

だが、『サラムボー』とは? よしんば人の名前だとして、すくなくとも日本人にとって、あまり馴染みのある名ではない。男か女か、それすらもよくわからない。いったい、どこの国の人なのか? 何歳で、趣味はなんなのか? 

ほんとうのところ、わたしも『サラムボー』を読みはじめるまで、サラムボーとはなにか、まったく知らなかった。
 
たとえば、クイズ「東大王」(TBS)に出ているような人なら、サラムボー、予習済みでした、などと言うのかもしれないが、すくなくともわたしはサラムボーについての知識がゼロだった。そしてサラムボー初心者のわたしでも、『サラムボー』はものすごくおもしろい小説だった。
 

3. 『サラムボー』を人に薦める

ところで、もしわたしの前に人を疑うことを知らない無垢なたましいの持ち主がいると仮定しよう。その場合、彼(女)はわたしに、『サラムボー』おもしろいよ、と言われた時点で、それなら読んでみよう、と近くの本屋まで全力疾走するにちがいない。

そして彼(女)は念願の『サラムボー』を入手、家に帰るのももどかしく移動中に頁を開いたが最後、そのまま小説の世界にどっぷりと浸かり、気付いたときには最寄り駅を乗り過ごしたり、車に轢かれたりしている。それでも『サラムボー』を中断するのはむずかしいだろう。
 
とはいえ、だれかになにかをおもしろいと言い、のみならず金と時間を割いてそれを読ませるというのは、なかなかどうしてたいしたことだ。
 
世の中には読むべき本がたくさんある。とてもじゃないがひとりの人間が一生涯に読める量ではない。にもかかわらず、わたしはこれまでの人生で、決してすくなくない数の本を人に薦め、また薦められてもきたのだった。
 
そしていま、またしてもわたしは不特定多数の人たちに本を薦めようとしているのだが、考えてみると、ある本を手に取り頁を開く前から、読書はもうはじまっている。
 
というのも、『ボヴァリー夫人』はボヴァリー夫人が姦通する話、『聖アントワーヌの誘惑』は聖アントワーヌが誘惑される話といった一種のメタ情報は、じっさいに本を読みはじめるまでもなく、そこらじゅうに転がっている。別に「ネタバレ」というレベルでなくとも、たとえば表紙に書(描)かれたあらすじや図版が、すでにして内容の一部を示唆しているではないか。
 
試みにここで、岩波文庫版『サラムボー』を手に取ってみる。
 
表紙に使われているのはアルフォンス・ミュシャの、その名も「サラムボー」なる絵画である。付言すると、ミュシャの絵画「サラムボー」の着想源こそ、ギュスターヴの小説『サラムボー』なのだが、それはさておき、ここに描かれているのは、オリエンタルな衣装を身にまとい、恍惚とした表情を浮かべて天を仰ぐ女性と、その前にかしずく婢女らしき女性。
 
ふたりはいずれも乳房をあらわにしており、後者は竪琴に似た楽器を爪弾いている。また没薬のようなものが焚かれているところから、宗教的な儀式の最中、あるいは演劇かなにかの一場面という印象を受けるかもしれない。
 
これだけでもじゅうぶんすぎる情報量ではなかろうか。

かくもおびただしき意味の磁場に、フランス語もできないわたしごとき一介の読者が、『サラムボー』についての新しい知見を付け加えることなどできようはずもないし、先述したように無垢なたましいの持ち主であれば、おもしろいと聞いたその時点で『サラムボー』を読みはじめるにちがいない。
 
反対に、他人の言葉を懐疑してやまず、話のあたまにはいつも「いや」とか「でも」をつけるタイプの人は、これすなわち、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、『サラムボー』はおもしろいといくら口を酸っぱくして言ったところで、否、むしろそのような言葉を重ねるほど、意地でも『サラムボー』を読まないのである。偽善の律法学者、ファリサイ人たちよ、あなたがたは、わざわいである。
 

4. そろそろ『サラムボー』の話をしよう

そういうわけで、いまわたしは『サラムボー』について書くのをたいへん躊躇している。しかしいざ筆を置こうとすると、こんなおもしろい小説を読まないのは、だれにとっても損だという狂的な老婆心が、むくむくと首をもたげてくる。
 
それならば、と思いついた。このような記事では小説のあらすじを紹介するのが通例だが、ここではかわりに『サラムボー』という小説がはじまる前の、いわば未生の物語をわたしなりの言葉で語ってみる。
 
はっきり言ってそんなものは、インターネットという文明の利器が発達したこの時代、だれでも簡単にアクセスできる情報ばかりなのだが、『サラムボー』の場合、ともすれば物語そのものを要約するよりも、その物語の前提となる物語を提示したほうが、より小説を読んでみようという気にさせるかもしれない。 
 
ただひとつ言えるのは、ギュスターヴという天才の手による絢爛豪華な小説世界は、いままさに語られようとしている物語前夜のエピソードなどとは、比べようもなく破天荒でぶッ飛んでいる。
 
なので、これから先の文章を読んで、すこしでも興味をおぼえた人は、すぐに『サラムボー』を読んでください。また全然おもしろそうじゃないなと感じた人も、それはわたしの紹介の仕方が不味いせいで、ギュスターヴはなにも悪くない。きっとおもしろいので、すぐに『サラムボー』を読んでください。

 

5. 『サラムボー』エピソードZERO

『サラムボー』の物語は、ローマとカルタゴのあいだで戦われた第一次ポエニ戦争(紀元前264年 - 紀元前261年)の直後からはじまる。
 
その頃、ローマと覇権を争っていたカルタゴは戦争に敗れ、相手方に莫大な賠償金を支払う必要がある。同時に、戦時中に雇用していた大量の傭兵たちにも給料を出さねばならない。
 
ただカルタゴという国家は、市民に税をしいておらず、周辺のアフリカ諸部族を植民支配する圧搾のシステムで成り立っている。そのため、膨大な給金をいきなり捻出するのは、事実上不可能。
 
給料が出ないとなれば、当然、傭兵たちは怒り狂う。下手をすると先の戦争で疲弊したカルタゴは、彼らに滅ぼされてしまう。なにしろこの傭兵というのは、当時文明の最先端だったカルタゴからすれば、海のものとも山のものともつかない、けだものじみた蛮人たちなのだ。 
 
そこで一計を案じたカルタゴの議員たちは、とりあえず打ち上げでも、と彼らを宴会に招く。苦肉の策の時間稼ぎだが、その大饗宴の会場に選ばれたのが、先の戦争で陣頭指揮をとっていた統領ハミルカル・バルカの屋敷。
 
この人、だれかというと、アルプス越えで有名なハンニバルのお父さん。戦時中はローマと互角に渡り合っていたのだが、彼が最前線でがんばってる最中に、カルタゴの議会は勝手にローマと和議を結んでしまう。
 
ハミルカルはもともとタカ派で、ローマとの戦争に前のめりだった人。それゆえ、カルタゴの形勢が不利になってきた時点で、反ハミルカル派の議員たちによって尻尾切りされてしまったのだ。

ハミルカルからすれば、祖国に見捨てられたかたちである。ふざけんなよ、と不貞腐れて、行方をくらませてしまった。それに追い討ちをかけるように、議会は主人不在のハミルカル邸を傭兵たちの打ち上げ会場にする。当然、費用はハミルカル家持ちである。理由は、議員らの吝嗇半分、ハミルカルへのいやがらせ半分。 
 
そんな事情で、数千数万単位の傭兵たち、外見も言語も習慣もバラバラの、百鬼夜行みたいな連中が、ハミルカルの館に大集結することになる。 
 
そして『サラムボー』という小説は、この大饗宴のシーンから幕を開ける。
 
ただでさえ負け戦でイラついているうえに、給料未払いという最低の条件まで加わった半グレのような連中が、出された酒を浴びるほど飲んで、おとなしくしていられるはずがない。
 
彼らがこの宴会で、いかにハメをはずして大暴れするか、それがこの作品中、第一の見せ場となるのだが、ギュスターヴの筆はのっけから小説における言語の経済学を完全に無視しており、この饗宴のすさまじさといったら、学生気分が抜けない体育会系サラリーマンたちの忘年会みたいなものとは比べものにならない。
 
とはいえ、この文章では小説の内容には触れない約束だった。気になる人はいますぐ『サラムボー』を買って確認してください。

 

6.  『サラムボー』は終わらねえんだ

以上、ここまでが『サラムボー』の物語以前の物語だが、まずおもしろいのは、小説の舞台を第一次ポエニ戦争の直後に設定しているところ。
 
ポエニ戦争といえば、先ほど名前を挙げたハンニバルがローマに侵攻した第二次ポエニ戦争(紀元前219年 - 紀元前201年)、そしてローマによってカルタゴが滅亡させられた第三次ポエニ戦争(紀元前149年 - 紀元前146年)のほうがインパクト大なわけだが、ギュスターヴは第一次と第二次のあいだに挟まれた一時期を、小説の舞台としてあえて選んでいる。 
 
しかも『サラムボー』では、カルタゴ宿命の敵国ローマの存在感は決して大きくはなく、せいぜいたまに賠償金の支払いを催促してくる程度。
 
そしてここがギュスターヴのすごいところなのだが、当時、カルタゴを舞台とした小説を書くなんてことは、ほとんど不可能に近い狂気の沙汰である。
 
なぜならカルタゴは、ローマによって文字通り徹底壊滅された都市であり、資料といえるようなものは断片的にしか残存していない。
 
ギュスターヴは、小説を書くための準備として、入手し得るかぎりの資料を読み漁り、膨大な量の創作ノートを作成していく作家だった。
 
しかしことカルタゴという都市国家に関しては、信頼に足る資料自体が残されていない以上、その街並みから居住空間、宗教儀式から食生活に至るまで、その一つひとつを、一例を挙げれば、プリニウス『博物誌』、ヘロドトス『歴史』、果ては『旧約聖書』といった、決して信憑性の高くはない書物から得た類推と想像によって、すべてを再構築するしかない。 
 
むろんギュスターヴは歴史家ではない。『サラムボー』の細部のいくつかには、明らかな事実誤認が含まれているらしい。
 
先ほど交わした約束、すなわち『サラムボー』の内容について触れることはしないという約束を、ほんの一瞬だけたがえることをお許しねがいたい。以下に引用するのは『サラムボー』第4章において、給金の分配のため、カルタゴの統領ジスコーが傭兵たちの前にあらわれる場面である。
 

先頭の船の舳先にジスコーがいた。後ろに巨大な木箱が見える。その丈は遺体安置壇より高く、冠のような鉄の輪が脇にたくさん垂れている。次に通訳の一団が続いた。みなスフィンクスのような髪型で、胸には鸚鵡が入れ墨してある。(中條屋進訳、上巻、114頁)

 
ここに蝟集しジスコーを待ち受けている傭兵たちは、かたやアフリカの奥地からやって来た出稼ぎ浪人、かたやアジアの辺境を追われて来た犯罪者というように、共通の言語、文化を持たない者らの雑多な寄せ集めであり、してみればそこに通訳という職業が介在するのは、ごく自然なことのように思われる。
 
しかし彼らの胸に「鸚鵡が入れ墨してある」とは、明らかにギュスターヴの創作であって、現に刊行当時『サラムボー』を読んだとある歴史家は、この通訳のくだりに難癖をつけたという。 
 
また「巨大な木箱」のサイズについて、「その丈は遺体安置壇より高く」と比較されたところで、そもそもカルタゴの遺体安置壇を見たことのない読者には、それがどの程度の大きさなのか、率直に言ってピンとこない。
 
ギュスターヴのこういうよくわからない比喩の魅力については、まずは『サラムボー』本文を熟読していただいたうえで、いずれわたしと酒でも酌み交わしつつ、じっくりと語り明かしてほしいものだが、要するにここでギュスターヴのまなざしは、19世紀フランスの小説家として機能しているのではなく、古代カルタゴに群れ集う、馬の骨とも牛の骨ともつかない傭兵たちのそれと同一化しているということだ。 
 
ボヴァリー夫人』も『ブヴァールとペキュシェ』もそうだが、ギュスターヴが小説を書く過程とは、自らがゼロから創造した虚構世界の人物との一体化の過程と言い換えることができる。
 
ボヴァリー夫人はわたしだ」という典拠不明の伝説は、当然、それ自体か単なる紋切型にすぎない。けれども、芸術作品の俗なる受容者と非凡な芸術家の比較という文脈で口にされるこの逸話は、ギュスターヴという小説家の特性をそれなりに捉えている気がしてならない。
 
とはいえ、同時代の愚劣さ、卑俗さをこれでもかと詰め込んでみせた『ボヴァリー夫人』と、自身と一切かかわりのない時代を描いた『サラムボー』とは、おのずから虚構のレベルが異なるはずだ。 
 
極論を言うと、『ボヴァリー夫人』の世界では、わたしたちが日常的に目にしているモノ・コトしか存在せず生起しないのに対して、『サラムボー』の世界では、近代的な「個」とか「秩序」に分節化される以前の情念と衝動が渦巻いている。
 
カルタゴ人からすれば傭兵たちは所詮人間未満のバルバロイにすぎないが、正直、やってることはどっちもどっちであり(どういう具合にどっちもどっちなのか、気になった人はいますぐ『サラムボー』を買いましょう)、文明と野蛮といった二項対立は意味をなさない。一元論の強さというか、聖も俗もひとしなみに併呑するパワフルなおもしろさに、『サラムボー』は満ちあふれているのだ。 
 
ボヴァリー夫人』を書き終えたギュスターヴは、自身が生み出した人物たちの卑俗さ、愚鈍さが心底いやになり、ほとんど逃避のようにして『サラムボー』の執筆に没頭していったという。
 
現代の退屈地獄に倦み疲れた人たちは、わたしと、そしてギュスターヴとともに、思う存分『サラムボー』の世界を味わい尽くそう。

 

※最後にひとつ余計なことをつけ加えると、『サラムボー』はギュスターヴの小説のなかでは決して評価の高い作品ではありません。ただわたしとしては『ボヴァリー夫人』のどこまでも凡庸な地獄を味わった先に待っている、最高のご褒美が『サラムボー』だと思うのです。『ボヴァリー夫人』を読む。そして『サラムボー』を読む。また『ボヴァリー夫人』を読み、『サラムボー』を読む。最近のわたしはこの「甘、じょっぱ」の繰り返しだけで生きていけるような気がしています。内容のない長文に最後までお付き合いいただき、ほんとうにありがとうございます。ここまで読んだ方は、もちろん『サラムボー』を読んでくれますよね?

 

 

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