悲鳴窟

怪談その他

【実話怪談】置き引き

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笠井さんははじめての海外旅行で置き引き被害にあった。
レストランを出て友人と談笑しつつ百メートルほど歩いたところで、ポケットにスマホがないことに気づいたのである。
さてはテーブルの上に置きッぱなしかと慌てて駆け戻るも、時すでにおそかった。
最前、じぶんが座っていたテーブルは片付けが済んでいなかったが、彼女のスマホは影も形もない。店員に訊いても要領を得ない、というかそもそも笠井さんも友人も、この国の言葉をよくは知らないのだ。
警察に行き、たどたどしい英語とジェスチャーでなんとか被害届を出したけれど、警官からは「無駄と思うが」みたいなことを言われて、気が塞いだ。
とはいえ、そこは友人との二人旅である。
笠井さんは空元気を振り絞り、努めて明るく振舞っていたものの、内心では最悪だと思っていた。はやく帰りたいと思っていた。
それどころかそのうちに、こんな海外旅行なんかにじぶんを誘った友人に対する理不尽な怒りがふつふつと沸いてくるのだった。彼女自身の不注意は、まったく棚に上げて。

笠井さんのそんな気持ちが友人にも伝わったのであろう、その後の旅行は会話も長続きせず、次第に、どこか険悪なムードに包まれていった。
ことあるごとにスマホで写真を撮りまくる友人のすがたを目にするにつけ、笠井さんの胸中にどす黒い感情が渦巻いてくる。
笠井さんはもう不愉快な態度を隠そうともしなくなった。

そんなわけで最終日前日には、ふたりとも口をきくのも厭になってしまったが、そうは言ってもホテルの部屋は同室である。
写真を整理しているのか、あるいは自分に対する不平不満をだれか別の友人に訴えでもしているのか、せわしなくスマホを弄る友人を横目に、笠井さんは内容もよくわからない外国のテレビ番組を見るくらいしかすることがない。
時計を見ると、夜の十時をまわったところだった。
明日は朝イチのチェックアウトである。
もう寝てしまおうと、歯磨きをしに洗面所に向かったところ、背後で、ごとッ、という音がした。硬いものが床に落ちる音だった。
それと同時に、友人が「わぎゃあッ!」という叫び声をあげた。
笠井さんが吃驚して振り返ると、数日前に置き引きされたはずのスマホが、ベッドの脇に転がっている。
一瞬、笠井さんはなにがなんだかわからず硬直したが、これは要するに、友人が置き引きにみせかけて隠し持っていたスマホを床に投げ出したとしか考えられない。
なにゆえそんなことをしたのか理解に苦しむけれど、それ以外に合理的な説明は不可能だ、と笠井さんには思われた。
「ちょっと、これどういうこと?」
怒りに顔を熱くしながらスマホを拾い上げる。
画面を見ると、充電はマックスに近かった。
友人は呼吸困難の金魚のように、口をパクパクさせている。
小芝居にしては堂に入っている、とあきれながら笠井さんがスマホのロックを解除すると、見覚えのない待ち受け画面が目に飛び込んできた。
それは熟年の太ったアジア系女性が全裸でラブラドール・レトリバーとおぼしき大型犬と対面で抱き合い、そしておそらくは接合している写真であり、笠井さんはあまりの悪趣味に「ぐひッ!」と変な声を出してしまった。
こんな最低のいやがらせってあるだろうか。
笠井さんはついに激怒した。
「ふざけんじゃねえよ!」
怒号を発し、友人の鼻先にスマホを突きつけた。すると友人は数秒間、やはり喘ぐように口を開閉しながらくだんの変態的な写真を凝視していたかと思うと、いきなり、
「消してッ、消してッ、消してえッ!」
と絶叫しながら笠井さんにつかみかかってきたので、彼女は思わず持っていたスマホで友人の顔面を殴りつけてしまい、思いのほかクリーンヒットした一撃によろめいた友人は二、三歩後ずさりすると、ぐにゃッ、という感じで床にくずおれて動かなくなった。ものすごい量の鼻血が出ていた。
人間が失神するのを見るのがはじめてだった笠井さんは動顚した。が、よく見ると友人は力なく床に横たわり目を閉じてはいても意識はあるようで、うッ……ぐッ……と噛み殺すように嗚咽しながらなおも、
「消してェ……消してェ……」
と訴え続けている。
その様子があまりに狂気じみており、笠井さんはぞッとした。言われるまでもなくすぐにおばさんと犬の結合写真を消去すると洗面所に向かい、濡らしたタオルを手に友人のもとに戻った。
「は?」
間の抜けた声が出た。
ほんの数十秒目を離した隙に、鼻血を流して嗚咽していたはずの友人がいなくなっていたのだ。
床には鼻血のあとが点々と残されていたが、彼女のすがたはどこにも見当たらない。荷物も消えていた。
部屋には大人ひとり隠れられるほどのスペースとてなく、まさかと思いベランダから下を覗いてはみたものの、別段、ホテルの外で騒ぎが起きている様子もない。
フロントに電話をかけ、下手な英語で確認したところ、応対したスタッフは不審な様子を隠そうともせずに「そもそも予約は一名で承っているが」というようなことを言う。
笠井さんは目の前がぐるぐると廻天するような感覚に見舞われて、ベッドに倒れ込んだ。気絶するように眠りに落ちた。

笠井さんは、知らない人たちにからだを触られる夢を見た。
彼らは絞った雑巾のような肌の男だったり、犬の頭をした女だったり、落書きみたいな顔の子供だったりで、実に馴れ馴れしく、というよりは淫靡な手つきで、笠井さんの尻や背中を撫でまわしてくる。
笠井さんは、いわゆる淫夢を体験するのははじめてだったが、気持ちいいとはまるで感じなかった。端的に、気持ちわるかった。ただ朝になってみると、ぐっしょりとシーツが濡れていた。それもまた、ものすごく気持ちわるかった。

次の日になっても友人はすがたをあらわさなかった。
ひとり分のチェックアウトを済ませ、笠井さんは帰国したのである。

それからというもの、その友人とはまったく連絡が取れなくなった。彼女を知る人や以前よく顔を出していたバーのマスターにそれとなく訊いても、みな一様に、
「そういえば最近見かけないねえ」
と首を傾げるばかりであった。
彼女の家にも行ってみた。が、駅から友人宅に向かう途中にある三叉路に差し掛かったあたりで不意に頭に霧がかかったようなふわふわした心持ちになってきて、たどり着いた先は一軒の立派な一戸建て住居だった。
おかしい、と笠井さんは思った。
その家の斜向かいには東南アジア産らしい生々しい仏像とか用途不明の祭具のようなものを雑に陳列している雑貨屋だかなんだかもわからない店があり、それはたしかに友人が住まうマンションの斜向かいにあったはずである。
まだ終わってはいないのだな。
笠井さんがはじめてその店の中に足を踏み入れると、奥のほうに腰掛けた女性が挨拶もせずに彼女のほうをじろりと睨めつけた。エスニック柄のワンピースを着た、アジア系の太った女性だった。
その女性の犬のような目を見た瞬間、笠井さんの顔から胸にかけてぶわッと鳥肌が立った。そのまま店を飛び出し、うしろを振り返ることもなく駅まで走った。
友人とは結局、現在にいたるまで連絡が取れていないが、一度だけ、共通の友人が、外国人っぽいおばさんと一緒に代々木公園にいるところを見かけたという。
満たされた様子のふたりは恋人繋ぎをして楽しげに談笑しながら、一頭の大きなラブラドール・レトリバーを散歩させていたということだ。