悲鳴窟

怪談その他

【実話怪談】またのお越しを

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「猫人間」の話を聞かせてくれた百花さんの体験談である。

三年前、まだ実家暮らしだった頃にいろいろあって両親と揉め、すぐにでも入居可能な部屋を探していた彼女は、東京都中野区は新井薬師近くのアパートに引っ越しを決めた。

そこは二階建ての小さな建物で、築二十数年、不便もそれなりにあったが、当時の職場から近く、なにより敷金礼金がゼロであることから、百花さんとしては即決の物件だったという。

「はじめての一人暮らしだったんで引っ越すまではウキウキだったんですよ。でも入居した当日から変なことばっかり起こって。なかでも、いちばんきつかったのが……」

部屋の中が、とにかく寒いのだ。

百花さんがそこに越したのは七月の半ば頃、しかもその年は観測史上稀にみる猛暑であった。にもかかわらず、部屋の中は震えるほど寒い。しかたなく彼女は、ダウンベストに毛糸の靴下姿で過ごしていたという。

「日当たりがわるいとか、別にそういうことでもないのが不思議なんです。結局、その夏は冷房を一度も使わなかったんで、電気代は浮きましたよ。ほんとうは暖房入れたいくらいでしたけど、そもそもその部屋、エアコンが壊れてて使い物にならなかったんです」

ひょっとしてこれはヤバい物件をつかまされたのか?

そう思い某事故物件公示サイトで検索してみたが、過去、そのアパートで人死にがあったりという事実はないようだった。

「まあ、●島てるだってそういう情報を完璧に網羅してるわけじゃないですもんね。ただ、住みはじめて、二ヶ月くらいで変なことはもう起こらなくなりましたよ。そこに関しては、当時のバイト先の店長に感謝してます」

そう言って百花さんはさもこれが「話の終わり」であるかのようにハーブティーを口に運んだ。

「ちょっと待って」とわたしはすかさず口を挟んだ。

「サマリーがさすがに雑ですよ。ほかにもいろいろ変なことがあったんでしょ? それに最後の『バイト先の店長に感謝』って、なにそれ? どういう意味なんすか?」

「ああ……」と百花さんは唇を尖らせて、
「ほかにも変なことはたくさんありましたよ。金縛り中に足掴まれて押入れに引き摺り込まれそうになったり、ベランダから半透明のおばさんが部屋を覗いてたり、仕事から帰ったら玄関の前に巨大な花束が置いてあったり……そんな感じで。バイト先の店長っていうのはですね、つまり……うーん、これ話すとたぶん混乱しますよ?」

生来、ものぐさ、もとい細かいことは気にしないタイプの百花さんは、引っ越し後しばらくは荷解きもまともにせず、部屋中に散乱した段ボールのから、その都度、必要なものを取り出すような生活をしていたのだそうだ。

しかし、そういうのはよくないのだろうな、と百花さんは思っていた。

なぜなら部屋に置かれた段ボールの陰に、わけのわからないものが潜んでいる気配を感じることがあったからだ。
もっと言えば「感じていた」どころではなく、そのものの一部を目にしてしまうこともあった。

一部というのは、つまりこうである。
ある時は薬指の欠けた左手が、ある時は万能ねぎのような色をした右足の膝から下が、ある時は眉間に大きな穴が穿たれた男の鼻から上が、段ボールの陰から覗くのだという。

「さすがにですね、そんなのが出てきちゃったら、いい加減、片付けないとヤバいな……とは思うんですよ。思うんだけど、家にいるとなんだか億劫になってしまって」

結局、二ヶ月ほどそのままの状態で暮らしていたそうだ。

「いま思い返すと、あれは無気味だったかも。うん……無気味ですよね……。なんでもっとはやくどうにかしなかったんだろ」

そう言って百花さんはいまさらのように身を震わせた。

「さっきも言ってたけど、二ヶ月くらいでそういう怪異は起きなくなったんでしょ? バイト先の店長のおかげで。それはつまり、どういうことなの?」
わたしが水を向けると、
「いや、なんだかよくわかんないんですけど……ある晩、ベッドで漫画読んでたら玄関のドアがものすごい勢いで開いて」
「それはこわい」
「いきなりバイト先の店長が入ってきたんです」
「え?」
「それで、その店長が部屋のなかに向かって叫び出したんですよ。『ご利用ありがとうございました! またのお越しをお待ちしております!』って」
「ええ?」
「そしたら、その瞬間……」

ドタドタドタッ! という複数人の足音が一斉に百花さんがいるベッドのほうに向かってきたのだという。

「それでびっくりして目が覚めたらもう朝方になってて」
「なに? つまり夢だったの?」
「それもよくわからなくて……。すくなくとも一部は現実だったんじゃないかと思う」

というのも彼女が起き出してみると、ベッド脇にある窓の内側に、大小さまざまな手形がべったりとついていたからである。なかには猫か犬の足跡に見えるものもあった。

「で、その日を境にこれまでめちゃくちゃ寒かった部屋のなかが、季節相応というか、急にあったかくなってですね……」
「変なことも起こらなくなったと」
「そういうことなんです。結局、そのアパートには二年住みましたけど、その後はまったくなにも起きなかったですね」

これは強調しておいてください、と頼まれたので付言すると、バイト先の店長と百花さんとは、あくまで店長と店員という関係に過ぎなかったという。

「悪い印象は全然ないですよ。やさしかったし。でも男性として魅力があるとか、頼りがいがあるとか、そんなふうに思ったことはなかったなあ……」
「……じゃあ、要するにこの話はそれで、めでたしめでたし……ということ?」
「ああ……うん、まあ……」
「その反応は、絶対そうじゃないでしょ」
「これはさすがに関係ないと思いますけど……」
「うん」
「当時のバイト先、その後すぐつぶれちゃって、店長も行方不明なんですよねえ……」

関係があるかないかは読者の判断にお任せしておく。