悲鳴窟

怪談その他

【実話怪談】洗濯物

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二年ほど前に天野が住んでいたマンションは駅から続くだらだら坂の頂上にあった。

「坂の左右には古くからある風情の家が並んでいるんだけど、その中に一軒、人が住んでるのかいないのかよくわからない家があったんだ」

見るからにひどいぼろ家というわけではないが、玄関に表札は出ていない。
だれか人が出入りしているところを、天野は一度も見かけたことがない。
夜であっても明かりがもれていることはない。ひとけがまるでないのだ。

「でもその家、うちのベランダから見ると、いつも屋上に洗濯物が出ていたんだよ」

ある晩、ベランダで一服していた天野が坂の下を見ると、洗濯物を出しッぱなしにしている家が目についたという。
遠目からだが、黒っぽいパーカーとジーンズだけが、屋上の面積に比してやたらと小さい物干竿にぺろッとひっかけられているのが見えた。
それがくだんの家だったのである。

「そこではじめて、ああ、人住んでたのか、と。その日は寒かったから、洗濯物冷え冷えになっちゃうねえ、くらいは考えたかもな」

以来、天野はベランダで一服する時にはその家の屋上を確認する癖がついてしまった。
洗濯物はいつもそこに出ていた。だが、見るたびに干されている衣服がちがう。
それも、ある日はブラウスとプリーツスカート、別の日はベージュ色の肌着とステテコ、また別の日は野球帽とキャラクター物の靴下、花柄エプロンと女性用下着、作業服っぽいつなぎと子供靴、徳利セーター、丈長のワンピース、海外のバンドTシャツ、陸上選手が着るようなユニフォーム……というように統一感がゼロである。

「いったいどんな人間が、それも何人住んでいるんだろうって考え出したら、なんだか薄気味悪くなってきて」

ベランダに出る時は極力、その家のほうに目をやらないようにするのだが、見まい見まいとしているということは畢竟、意識はそちらに向かっているということである。
ある晩、一服を終えて部屋に戻ろうと姿勢を変えた拍子につい屋上に視線をやると、いつもは洗濯物が干してある場所にだれか人が立っているのを見た気がした。
一瞬だったが、白いワイシャツに黒いズボンを履いた男だったように思う。
心臓の鼓動がドクドクと早まるのを、洗濯物を見間違えただけだとむりやりに抑えつけ部屋に戻った。
玄関の靴脱ぎに人が立っていた。
白いワイシャツに黒いズボンを履いた男が、こちらに背中を向けている。
ごつん、ごつん、と音がするのは、玄関の扉に頭を打ちつけているらしい。
ぱちッと部屋の電気が消え、またついた時には男の姿はなかった。
手にしていたスマホが、うううううううう……という男のうなり声のようなものを発した。天野はそれを放り捨てて部屋を飛び出した。
一階に常駐している管理人と一緒に戻ってみたが、部屋には特に変わった様子もない。
いぶかしげな様子の管理人を見送った天野がふと見ると、玄関扉のちょうど人の頭があたるほどの位置にたばこの火を押しつけたような跡が残っていたという。

それから引っ越すまでの約三か月間、とりたてておかしなことは起こらなかった。けれど天野はベランダに出ることはおろか、カーテンを開けることすら一度もしなかった。

「暗くなっても出しッぱなしにされてる洗濯物を見ると、いまだにひやッとするよ」

そう言って、天野は寒そうに二の腕をさすった。