悲鳴窟

怪談その他

【読書感想】鈴木捧『現代奇譚集 エニグマをひらいて』

つい先日、こんな本が出た。

処女作『実話怪談 花筐』、第二作『実話怪談 蜃気楼』で独自の淡く、けれど奇妙に忘れがたい怪談世界を提示した鈴木捧氏の第三作である。私は前掲書を再読三読し飽きなかった。玉石混交の実話怪談本の中で、舐めるように読んだものといえば、我妻俊樹氏、朱雀門出氏を筆頭に、鈴木氏の『花筐』『蜃気楼』を挙げるだろう。それほどに、私にとっては特別な意味を持つ作家だ。

この三人の怪談に共通する点がある。
「こんな話が怪談になるのか(なるのだ)」というセンス・オブ・ワンダーである。それは「怪談とはこのようなものだ」という固定観念を打ち崩し、怪談の世界そのものを拡張する怪談、読者の怪談観を変容させてしまう怪談、といってよい。

本書『エニグマをひらいて』における鈴木氏の狙いが、そうした「怪談の再発見」をより推し進めたものであることは、以下の告知文を読んでわかっていた。

note.com

それだけに私は一怪談好きとして、また一応は実作に身を置く者として刊行を心待ちにしていたのだが。

一読、どころか目次を開いた段階で度肝を抜かれた。

これ以上は本書の構成に関する大きなネタバレを含む(どこまでがそれに該当するかはわからないが)ため、極力、慎重に筆を進める。

本書の構成は、こう表現してよければ極めて音楽的である。私は音楽理論には明るくないが、変奏曲のそれに近いのではないか。最初に主題が提示され、その変奏が一定の秩序を保つように配列される。
各章には、
「1 朧を喚ぶために」
「2 峰で、森で、谷で」
「3 メモリーズ」
「4 シミュラクラ、転移、リピート」
「5 エニグマをひらいて」
という題が冠されており、それぞれのブロックにどのようなタイプの話が配置されているのかを、読者は目次を開いた段階で、ある程度把握することができる。
問題は、本書を貫く主題の存在が最後まで「謎(エニグマ)」に包まれていることだ。主題を追えば追うほどに、手を替え品を替え繰り返されるその変奏の方法自体に目を奪われ、気づいたときにはいまいる座標を見失っている。そんな稀有な読書体験。

のみならず、本書は一種の「降霊術」としての構造を持っているようだ。
怪談本である以上、本書には数多くの怪異体験談が収載されている。幽霊、妖怪、奇妙な生物の話、記憶と空間の捩れについての話、あるものがなく、ないものがある話。
実話怪談とはいささか奇異な文芸の形式で、そこで提示されている怪異がネタとして強いものであれば、文章の質は不問に付される傾向にある。読者が求めているのはあくまで体験談の核となる怪異そのものであって、その他の要素は怪異の付随物、もっと言えば枝葉末節と見做されがちだ。
しかし鈴木氏はこうした怪異の周辺情報にこそ筆を費やす。特に印象的に残るのは、やはり得意の山怪談のそれだろう。たとえばこんな具合。

枝葉に上方を覆われた道が徐々に明るくなるのを感じたかと思うと、唐突に開けた場所に出た。斜面上に半分埋まるような形で土嚢が規則的に差し込まれ、それに合わせて崩壊を防ぐための丸太が金具で固定してある。そこから少し下ったところがちょっとした広場のように均されている。そこに巨大な送電鉄塔が立っていた。四隅を苔生したコンクリートブロックで固定され、そこから上方に向け足が伸びている。(250頁)

描写とは、モノの輪郭をなぞることだ。そうして描き込まれたモノは、しかしどれだけ言葉を費やしてもモノそのものにはなり得ない。殊に幽霊の場合はそうで、なぜなら幽霊とは「不在」の表象にほかならないから。鈴木氏はそうした言葉の性質を極めて意識的に自身の怪談に取り入れている。

本書において、読者はさまざまな「不在」に出会う。けれどそうした「不在」を丁寧に積み重ねていくことで、最終頁にまで辿り着いた読者の前に、なにか途方もなく得体の知れないもの、強いて言えば「心霊」という体験そのものを「現前」させる術式が、本書には組み込まれているのではないか。少なくとも、私は本書をそのような体験として読んだ。

理屈っぽいことを縷々書き綴ってきたが、そう構えて読む必要はない。収録作はそれぞれに滋味深く、固有の味わいを持つ奇譚ばかり。じっくり堪能すればよい。
本書には人間を見境なくとり殺す悪霊も、何世代も続く呪いも出てはこない。読み終えたあとには、不安と恐怖、そして一抹の懐かしさと清々しさが残るだろう。

この人の書いたものならなんでも読みたいと思わせる、素晴らしい一冊だった。
前二作もしみじみとよいので、未読の方は是非。