悲鳴窟

怪談その他

【読書感想】富岡多恵子『遠い空』(中公文庫、1985年)

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短篇集。表題作「遠い空」は、先日めでたく文庫化された春日武彦『無意味なものと不気味なもの』(中公文庫、2024年)で取り上げられている。
わたしは春日氏のこのエッセーを学生時代に愛読したいへんな影響を受けたのだが、言及されている小説のうち、どういうわけかこの「遠い空」だけは読んでいなかった。
で、せっかくだしこの機会に表題作くらいは読んでおこうと軽い気持ちで本書の頁を紐解き、愕然とした。あまりにおもしろく、おそろしいのである。

車谷長吉は「漂流物」で第113回芥川賞の候補になった際、過半数の票を獲得したもかかわらず、受賞を逃した(同年の受賞作は保坂和志『この人の閾』、車谷を敬愛するわたしはこの一件をもって保坂和志を毛嫌いしている)。
その車谷の「漂流物」について、当時選考委員だった日野啓三は、「殺伐とした時代にこのような『殺人小説』は推せない」という意味のことを言ったのであった。

本書『遠い空』に収められた表題作及び「末黒野」は紛うことなき「殺人小説」である。それもいわゆる三面記事的な事件を扱って躊躇いがない。ひょっとすると実際にあった事件をモデルにしているのかもしれないが、別にそれはこの作品群を味わうのに不要な知識である。

表題作では性交を拒まれた聾唖の男が、「末黒野」ではなにをしても続かない怠け者の男が、山中で遭遇した老婆を、足手まといの子供と自分を見放した両親を、それぞれ殺す。動機を強いて挙げるなら、「焦った」「嫌になった」「面倒になった」、そんなところだろう。
それでいうと「女道楽」の春駒も「二十歳」の西松政志も、いずれも短慮というほかない理由から人生を狂わす行為に走ってしまうのだけれど、その決断に一切の閾値がない。ここを踏み越えたらアウトという線引きがない。ずるずると自分を引き摺って、また引き摺られて、気づいたときには取り返しのつかないことになっている。「魔が差した」という瞬間が欠けているのだ。
だからなのか、この短篇集に収められた作品はどれもこれも終わった感じがしない。際限なく続く(そして円を描く)長城の、その一区間を収めたスナップショットのように思える。わたしにはそれがとてもおそろしい。

実話怪談書きとしての自分は、こういう終わったかどうかもわからない話(いわゆる現在進行形の話とはニュアンスが異なる)に弱い。
それはきっと、ある出来事とか人の一生というものはどこかで明瞭に完結するものではなく、だらだらと続く永遠の中に組み込まれているのではないか、という危惧からきているのだろう。

表題作はもちろん「末黒野」「二十歳」「弱肉」など忘れがたい作品ばかり。富岡多恵子の短篇をどこかがまとめて出してくれないだろうか。