【怪談私小説】生きるも死ぬもない女

当方は東京都墨田区旧寺島村の生まれであって、その三神社であるところの白髭神社、高木神社、長浦神社のいずれの例大祭にも幼少期から慣れ親しんでいる。父はそのうち白髭神社の氏子総代を務めたことがあり、今も実家では神輿巡幸の「セッタイ」をする。要するに、担ぎ手たちを酒や菓子で以てもてなす休憩所の役割を担っているのである。
白髭神社は氏子組織のことを「図子(ずし)」と称す。我が家は八雲図子という図子に属し、だからなのか昨年、八雲忌(小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの命日)である九月二十一日に、怪談に関するトークイベントを行うことになった。
その際、ゲストとして招かれたのが、墨東地域の歴史に詳しい作家のS氏と、わたし蛙坂であった。
イベントは墨東地域にまつわる怪談をS氏とわたしがいくつか披露した後、当地に残る伝承や怪談に関する対談という流れで進行していった。
ぼちぼちイベントも終盤に差しかかった頃、客席最前列に座っていた女性が不意に手を上げ、発言を求めた。
「おふたりは、死んでも生きている女の伝説をご存知ですか?」
S氏とわたしは顔を見合わせた。あいにくそんな話は聞いたことがない。
「あ、すみません、大丈夫です」
我々の困惑を察したのか、女性はすぐに引き下がった。
が、イベント後の打ち上げの席で、ひとりの女がスーッと音もなく近づいてきて、わたしの隣に腰掛けた。
「さっきの話の続き、聞きたいですか?」
わたしは無論「はい」と答えたはずだが、その後の記憶が混濁している。そもそもそのときわたしにすり寄ってきた女は、イベントで挙手した女とは、年齢も背格好もまったくの別人だったような気がしてならない。
後日、わたしは友人のペロ子と新宿アルタ前で待ち合わせをしていた。
ペロ子にはいわゆる霊感らしき能力があり、その日は彼女にここ数ヶ月以内に入手した心霊写真の鑑定をしてもらう予定だったのだ。
もっとも、わたしは基本的に幽霊を信じていない。心霊写真なんてものも眉唾と思っているが、それはそれとして、ペロ子の鑑定はおもしろい。一聴の価値がある。写真に収められた幽霊(らしきもの)が生前辿った来し方はもちろんのこと、撮影者の性格や外見的特徴までをもピタリと言い当てるのだ。
ペロ子はうんこでも踏んだような顔をして待ち合わせ場所に現れた。
「ひょっとして、なんか女と揉めてる?」
彼女曰く、横断歩道の向こう側からわたしを認めたとき、空気のような雰囲気の女がもたれかかっているのが見えたという。
「あ、この女だ」
アイスティーを飲みながらタブレットの画面に映し出される心霊写真を眺めていたペロ子が言った。
それは二、三日前に知人から送られてきた写真で、その日持ってきた中でも特に薄気味悪いものだった。どこかの山中で撮影されたもので、被写体は若い男。登山服に身を包み、カメラに向けダブルピースを作る男の背後には、ブナと見られる巨木の幹があり、その右後方、数メートル離れたところにナップザックを背負った女の後ろ姿が写り込んでいる。
今後ろ姿と書いたが、奇妙なのはその女がこちらを向いて笑っている点だ。つまりは、首から上だけが百八十度捻れているのである。心霊写真にしてはあまりにはっきりしすぎているが、見ていて不安をおぼえる一枚だった。
「さっきスミちゃんの横にいたの、この女だよ」
「幽霊?」
「死んではいるね。何度も死んでる。脳も内臓も半分ないし。でも幽霊じゃない。死んでも生きてる女。それ以上は、ちょっとわかんない」
グラスを持つ手が震えていた。ペロ子のそんな慄きに接するのは、はじめてのことである。
わたしはイベントで見かけたひとり乃至ふたりの女のことを思い出していた。きっとなにか、かかわりがあるにちがいない。どこかで自分は、全体像のわからないパズルのピースを拾ってしまったのだ。S氏に連絡せねばと思った。
ペロ子と別れたその足で、千住大橋近くに位置するS氏の事務所に向かった。事務所といっても印刷所の二階をそれらしく改装したスペースで、S氏は専らそこを、人妻編集者との逢引きに使っていた。人妻編集者はわたしの担当だったこともあり顔を合わせたら気まずいのだけれど、この際、四の五の言ってはいられない。
「変な女につきまとわれているんですよ」
少し痩せたように見えるS氏は言いながら、刑事ドラマでよくするように、窓のブラインドを指でちょいと下げてみせた。
「ほら、あそこにいるでしょう?」
同じようにして窓の外を見ると、道を挟んで向かいの駐車場の隅に、なるほど女らしき人影がいた。女は停めてあるトラックの陰に身を潜めるようにして立っているが、角度が悪いため、ここからでは目鼻立ちもうかがえない。
「いつからですか?」
「たぶんだけど、あのイベントの直後からです。それとは別に、彼女とのことが夫にバレました。もう会えないと泣きながら電話をしてきて。訴訟されたらと考えると、僕は夜も眠れない。元妻への慰謝料と養育費の支払いもあるし、変な女にはつきまとわれるし」
ため息を吐いたかと思うと、S氏はいきなり部屋の壁を蹴りつけた。ものすごい音がして壁に穴があいた。わたしは、もう帰ろうと思った。
事務所を出て駐車場のほうを見たら、女はまだ同じ位置に立っていた。わたしはそちらに近づいていった。女は逃げも隠れもしなかった。当たり前だ。それは風雨に晒された清涼飲料水のポスターだった。健康的な笑顔を貼りつけた美しすぎる女が、その視線を虚空に彷徨わせていた。わたしは事務所の窓を見上げた。ブラインドの向こうで、S氏が息を潜めている気がした。
「この写真、ちょっとおかしいんだけど」
夕飯の席で、妻がスマホを見せてきた。
それはつい先日、友人夫妻と子連れで新宿御苑に遊んだときの写真で、その中の、わたしが写っているものにだけ奇妙なハレーションがかかっていた。いくつかの写真では光の筋に女の横顔らしきものが浮かび上がっており、わたしにはそれがS氏と関係している編集者によく似ているように思われた。
「浮気でもしてるの?」
「いやちがう、それはおれの話じゃない」とわたしは叫びたかった。しかし詳しい説明をする気が起きず、知らぬ存ぜぬを突き通した。写真は一枚残らず削除させた。
半月ほど経った頃、とあるアンソロジーの寄稿依頼が来た。急なことで申し訳ないが、一週間で二十枚の原稿をお願いしたい、と平身低頭され、瀉血でもするようにして書き上げた。そんなことは珍しくもないのですぐに忘れてしまったものの、ある席で、その原稿がS氏の埋め草だったことを知った。S氏は、原稿を飛ばして行方知れずになっているらしいのだ。
「同じ時期に、Kさんとも連絡がつかなくなったそうですよ」
事情通の知人からそう聞いた。Kさんは、S氏と関係していた編集者である。編集部では寄せ鍋をひっくり返したような大騒ぎになっているようで、警察に捜索願いまで出したのだとか。
暮れも押し迫った頃、わたしはひさびさに実家に顔を出した。せっかくだから外食でもという話になり、懇意にしている中華料理屋に行くと、隣の席にどこかで見た顔の女がいた。女のほうでも、こちらをうかがっている様子である。
記憶の糸を必死に手繰っていたら、そのうちにやっと思い出した。
あのイベントの最中、死んでも生きている女のことを訊ねてきた女だった。
あっ、と思って立ち上がった。女はちょうど会計を済ませたところだった。わたしはあわてて女の後を追い、店の外に出た。女は車道を爆走していた。とても人間とは思えない速度で、車と車の間を縫って走っていた。
「なんだあの女、生きてる人間じゃねえっ」
近くを歩いていた若い男が叫んでそちらにスマホを向けたが、そのときにはもう女の姿は影もかたちもなかった。
死んでる人間の動きでもないよ、とわたしは思った。