悲鳴窟

怪談その他

【劇評】『現像 世田谷区桜上水09.2024』

先日、桜上水の古民家で行われた松尾裕樹&丸山港都の演劇作品『現像 世田谷区桜上水09.2024』を観てきた。

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脚本、演出を手掛ける松尾さん、俳優の丸山さんとは前作『バーン・ザ・ハウス』のアフタートークに呼んでいただいてからのご縁で、昨年には自分の起こした実話怪談をイベントで朗読してもらったりもした。
『バーン・ザ・ハウス』もまたホラーをテーマにした作品ではあったものの、どちらかといえば祝祭的な側面が強かったように思う。ホラー、ゴシックという枠組みを借りたお祭り騒ぎというか。ただし今作『現像』はホラーというよりは明らかに怪談を志向した作品であって、怪談を書く者としてより深く興趣をそそられた。

物語の筋は至って単純である。姉と二人の子供が姿を消した一軒家を弟(以下、語り手と表記する)が訪れる。物語は終始、この語り手の言葉と身振りを介してのみ観客に伝達され、他の登場人物は一切登場しない。
語り手は姉の失踪をなんらかの人外の力によるものと考えているらしい。語り手は観客に向かって事の次第を説明しつつ、何者かを呼び出すための儀式を行なっているようだ(このくだりはスクエアやひとりかくれんぼといった降霊術を髣髴させもする)。
姉は失踪する直前まで、部屋の片隅に設置したビデオカメラで家の様子を撮影し続けており、語り手は当時の状況を再現するとの名目で、自分自身の様子を同じカメラにて撮影、彼の姿は部屋奥にあるテレビにリアルタイムで映し出される。

再現、というのがこの演劇作品を駆動させる大きな力だ。語り手は義兄や姉の友人、果ては子供たちとのやりとりまでをただひとりの言葉と身振りによって再現しようとする。そのさまは相当に執拗というか端的に狂気を孕んでおり、語り手は、いま・ここに過去をダブらせることで、不在のなにかを召喚しようと試みているらしい。
この再現は頻繁に反復され、またひとつの再現にかかる時間も決して短くない。いま語り手が演じているのが現在の彼自身であるのか、あるいはまた過去の再現であるのか、その人称と時制を見分けることは意外にも難しい。演じるという行為そのものが巧妙にダブらされているからだ。
ダブるといえば、斯様な「ふり」の仕草に没頭する語り手の一挙手一投足は、先述したとおり、ビデオカメラによって絶えず撮影され、テレビ画面に映される。観客であるわたしたちはここでもダブった世界を見せつけられているわけだ。言うなればこの作品は、時間、空間、人称といった、わたしたちが物語に没入するための要件を幾重にもダブらせ、語りの審級に揺さぶりをかけてくるのである。
物語が進むにつれ、語り手は当初わたしたちに見せていた姿とは別の顔を露呈させる。けれどこの点についても、いわゆる信頼できない語り手というふうに理解するよりは、意識的無意識的なダブりの氾濫によって、少しずつその個性を変容させてしまっていると考えたほうがいいかもしれない。

ダブる、すなわち同時に同じという事態は実存への不安をもたらす。日本語で影の病といい、ドイツ語で二重に歩く者と呼ばれる現象は、体験者の主体を同一性を狂わせ死に導くものだし、かつての民俗社会においては、双子の誕生は忌むべきものとされた。
『現像』はこのような同時に同じ要素を執拗に反復することで観客を眩惑し、いま・ここへの不安を煽りたてる。これには尋常の演劇に比べて、演者との距離が近いことも一役買っているだろう。
ある箇所で語り手はビデオカメラを手に、家中を歩きはじめる。無論、観客の目の前から語り手の姿は消えるが、先述したようにカメラの映像はリアルタイムでテレビに映し出されるから、ここでは語り手と観客の視点すらもダブることになる。一人称視点のゲームをプレイしているような感覚だ。
なのだが、観客との同一化といってもよいこうした体験を経て、あらためて観客の前に姿を現した語り手は、以前までの彼とは明らかな変容を遂げている。いま・ここでの同時に同じから引き剥がされ、なにかまったく別の存在となった語り手は、クライマックスにおいて、ある意味で物語の重力から解き放たれていくのだが、その瞬間は間違いなく、本作中で最もおそろしい場面になっている。

怪談の怖さとは、世界の見え方が不可逆な変容をきたすことではないか。怪異の体験を通して世界の構造の複雑さに直面することで、これまで壁の模様と見えていたものが実際にはびっしりとこびりついた羽虫の死骸であると気づくような。その意味で『現像』は、作中人物のみならず観客であるわたしたちへの変容までをも迫る作品だといえる。番茶臭い日常の背後には、語り得ない暗黒が広がっており、それに気づいたが最後、わたしたちはもう以前のわたしには戻れないのである。