悲鳴窟

怪談その他

【実話怪談】鶏鳴

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柳楽さんが数年前まで住んでいたアパートでは、明け方、よく外で鶏の鳴く声が聞こえたそうだ。
そこは駅から徒歩二十分ほどの場所にある木造物件で、周囲には畑も多かった。だから鶏を飼ってる人くらいいるだろう、と柳楽さんはそう考えていて、鳴き声がすること自体に不審の念はなかったけれど、仕事で泥のように疲弊しているときなどは、正直、うるさいなあ、と頭に来ることもあった。とはいえ一番鶏の鳴く声で目を覚ますなんてのは、なかなか得難い経験である。
柳楽さんは、そのアパートを結構気に入っていた。

引っ越してしばらく経った頃、柳楽さんに恋人ができた。二つ歳下のよく笑う女性だったが、はじめてアパートに遊びに来た際、彼女が妙なことを言った。
「なんかさあ、朝方、外で子供が泣いてなかった?」
柳楽さんは首を傾げた。
「子供? 鶏の鳴く声じゃなくて?」
「いやいや、絶対に子供の声だよ。近所の子が虐待でもされてるんじゃない?」
二人の会話はいつまでも平行線のまま噛み合わず、その後、彼女は柳楽さんの家を訪れることはあっても、泊まっていくことは決してなかったという。

そんなある日のこと、柳楽さんが深夜にラジオを聴きながら夜食のラーメンを作っていたら、玄関扉をノックするような音がした。
風の強い晩だったから、最初はそのせいかと思っていたのだが、二、三分もするうちに、
「……て……され……こ……まま……」
と、くぐもった声が聞こえてきた。
時計を見れば深夜一時を少し回ったところで、こんな時刻に訪ねてくる者がまともな脳の持ち主とは思えない。
「……て……され……こ……まま……」
声の主は、同じ言葉をひたすら繰り返している。
怖すぎる、とは思うが、一体なにを言っているのか気になって、柳楽さんはこちらの動きを気取られないよう、忍び足で玄関に近づいた。
息を殺して、扉に耳を押し当てる。

……コケコッコ
コケにされ
コケコッコ 
コケのむすまま
コケコッコ……

歌をうたっている? と思った直後、室内にものすごい鶏鳴が響きわたり、振り向いた柳楽さんが見たのは、裸の子供の身体に鶏の頭を乗せたなにかよくわからないものが小走りに走り寄ってくる姿だった。

「不条理(系)怪談」についての覚書

「不条理(系)怪談」という言葉を怪談界隈の人たちはわりと普通に使っているように思える。
じぶんにしてもそれは同様で、「不条理(系)怪談」を得意とする作家といえば、例えば我妻俊樹、朱雀門出両氏の名前がすぐに思い浮かぶ(現にこの二人が「不条理(系)怪談」の二大巨頭だろう)し、若手の怪談作家では、鈴木捧氏、ふうらい牡丹氏などもそうだろう。もっと言えば、じぶん自身もそのあたりの系譜に連なるとの自覚がある。

とはいえそれでは「不条理(系)怪談」とは、つまるところどのような話なのか、あるいは怪談における不条理とはなにかとの問いを立てたとき、これに即答できる人は稀ではないかと思う。
なぜなら怪談とはそもそも世界の条理に反した出来事を語るジャンルだからであって、死んだ人が生前の姿で現れるなんてのはその最たる例だ。

じぶんは、怪談とは基本的に、本来あるべきものがない、反対にないはずのものがある、この二点に還元されるのではないかと前々から考えており、してみればここで言うところの「べき」「はずの」とは、世界の条理そのものを体現する言葉だ。
怪談とは、ある「べき」「はずの」世界に否を突きつける物語言語の謂である。

そのように仮定した場合、「不条理(系)怪談」という言葉には致命的なトートロジーが内包されているように思われる。不条理こそ、怪談の要諦なのだから。

しかし一方で、「不条理(系)怪談」というジャンルを、以下のように定義してみることも可能かもしれない。すなわち「不条理(系)怪談」とは、単にわけのわからない話というのではなく、怪談という物語形式における条理に反した物語、反物語なのであると。

怪談もまた物語の一形式である以上、そこには間違いなく固有のルール(文法)が存在する。「不条理(系)怪談」においても斯様なルールは遵守される必要があり、そうでなければ読者や視聴者はそれを怪談と認識し得ないはずだ。
そのギリギリのルールの枠内に踏み留まりながら、怪談という表現形式に固有の条理を突き崩してしまう話、それこそが「不条理(系)怪談」と呼ばれるものの正体ではないか。

そうであってみれば、わたしたちが「不条理(系)怪談」に触れたときにおぼえる戸惑いとは、人間の世界認識において起こり得ない事態に対する戸惑いというよりは、怪談という物語ジャンルにおいて起こり得ない事態に対する、きわめてハイコンテクストな戸惑いとして捉えられる。わたしたちは世界に触れるのではなく、言葉に触れるのだ。

【日記】20230711 大河ドラマ

妻が録画したNHK大河ドラマを観ている。今年の大河は松潤の家康と聞いていたが、タイトルを一目見ておどろいた。『こうしろ平八郎』というのだ。若かりし日の大塩平八郎池松壮亮が演じている。大塩平八郎という人は教科書に載っていたあの顔の感じから大変に厳格でストイックな人だと思っていたが、池松演じる彼は優柔不断、周囲から「ああしろこうしろ」と言われたことにすぐ従ってしまうから、ちょっと才走った若手なんかには結構みくびられている。懊悩する大塩。支える妻(高畑充希)。いつもの大河っぽい日常パートがぬるぬる続いていく。「ジョージみたいんだよーっ!」突如、娘が絶叫した。こうしてわたしたち『こうしろ平八郎』の視聴を断念、ほくほく顔の娘に付き合って『おさるのジョージ』を観たのであった。

【日記】20230710 鰻

夕方、保育園に娘を迎えにいったら、園脇の側溝に大きな鰻が横たわっていた。野田という小柄な先生が刺股みたいなものでそれを上からおさえつけているところに國分という背の高い先生が駆けてきて、手に持った千枚通しで鰻の脳天を貫いた。鰻は笛を吹くような声で高く長く鳴くと見る見るうちに全身の色が真っ白になった。死んだらしかった。「こうなったらもう煮ても焼いても食えないんだ」と見物の爺さんがひとりごちた。そのほかにはだれも、なにも言わなかった。なんでも鰻は園児をひとり頭から呑み込んだとのことで、物騒な話だと思う。夕飯は鮭を焼いて食べた。

【日記】20230709 KJ

岩波文庫から出た中上健次の短篇集をだいぶ読んだのだけれど、いまの自分のモチベーション的に他人の性交の話にあまり興味が持てない。というか他人の性交の話にわりと興味がある状態がむしろ異常ではないかという気がしてもいる。なんでおれはそんな他人の性交なんかに興味があったのだろう。それはそれとしてこの本はアンソロジーとしてあんまセンスないと思う。

【日記】20230708 ごま油

昼ご飯を作ろうとしたらツナ缶とパスタしかなかったので当然ツナのパスタを作ることになる。選択肢が少ないのはいい。なぜなら思い悩むことがないから、とうそぶきながらニンニクを刻み、オリーブオイルを探したのだがどういうわけか一向に見つからない。かわりにごま油が出てくる。ごま油だけは無限に出てくる。スーパーに行くといつもわたしは、そういえばごま油なかったな、との思いにとり憑かれてしまう。たまにはいいごま油を買うかな、と太白胡麻油なんかをカゴに入れてしまう。昔交際していた女性が「男ってバカだからどんな料理にもごま油とクレイジーソルトを使えばいいと思ってるんだよね」と言っていた。その言葉はわたしの海馬にいつまでもこびりついて離れない。にもかかわらずわたしはごま油を買う。オリーブオイルを買わない。いつだって、わたしはごま油を使うんだ。ごま油でニンニクを炒める。部屋中に、ごま油とニンニクの匂いが立ち込める。パスタの茹で加減はまずまずであった。

【読書感想】鈴木捧『現代奇譚集 エニグマをひらいて』

つい先日、こんな本が出た。

処女作『実話怪談 花筐』、第二作『実話怪談 蜃気楼』で独自の淡く、けれど奇妙に忘れがたい怪談世界を提示した鈴木捧氏の第三作である。私は前掲書を再読三読し飽きなかった。玉石混交の実話怪談本の中で、舐めるように読んだものといえば、我妻俊樹氏、朱雀門出氏を筆頭に、鈴木氏の『花筐』『蜃気楼』を挙げるだろう。それほどに、私にとっては特別な意味を持つ作家だ。

この三人の怪談に共通する点がある。
「こんな話が怪談になるのか(なるのだ)」というセンス・オブ・ワンダーである。それは「怪談とはこのようなものだ」という固定観念を打ち崩し、怪談の世界そのものを拡張する怪談、読者の怪談観を変容させてしまう怪談、といってよい。

本書『エニグマをひらいて』における鈴木氏の狙いが、そうした「怪談の再発見」をより推し進めたものであることは、以下の告知文を読んでわかっていた。

note.com

それだけに私は一怪談好きとして、また一応は実作に身を置く者として刊行を心待ちにしていたのだが。

一読、どころか目次を開いた段階で度肝を抜かれた。

これ以上は本書の構成に関する大きなネタバレを含む(どこまでがそれに該当するかはわからないが)ため、極力、慎重に筆を進める。

本書の構成は、こう表現してよければ極めて音楽的である。私は音楽理論には明るくないが、変奏曲のそれに近いのではないか。最初に主題が提示され、その変奏が一定の秩序を保つように配列される。
各章には、
「1 朧を喚ぶために」
「2 峰で、森で、谷で」
「3 メモリーズ」
「4 シミュラクラ、転移、リピート」
「5 エニグマをひらいて」
という題が冠されており、それぞれのブロックにどのようなタイプの話が配置されているのかを、読者は目次を開いた段階で、ある程度把握することができる。
問題は、本書を貫く主題の存在が最後まで「謎(エニグマ)」に包まれていることだ。主題を追えば追うほどに、手を替え品を替え繰り返されるその変奏の方法自体に目を奪われ、気づいたときにはいまいる座標を見失っている。そんな稀有な読書体験。

のみならず、本書は一種の「降霊術」としての構造を持っているようだ。
怪談本である以上、本書には数多くの怪異体験談が収載されている。幽霊、妖怪、奇妙な生物の話、記憶と空間の捩れについての話、あるものがなく、ないものがある話。
実話怪談とはいささか奇異な文芸の形式で、そこで提示されている怪異がネタとして強いものであれば、文章の質は不問に付される傾向にある。読者が求めているのはあくまで体験談の核となる怪異そのものであって、その他の要素は怪異の付随物、もっと言えば枝葉末節と見做されがちだ。
しかし鈴木氏はこうした怪異の周辺情報にこそ筆を費やす。特に印象的に残るのは、やはり得意の山怪談のそれだろう。たとえばこんな具合。

枝葉に上方を覆われた道が徐々に明るくなるのを感じたかと思うと、唐突に開けた場所に出た。斜面上に半分埋まるような形で土嚢が規則的に差し込まれ、それに合わせて崩壊を防ぐための丸太が金具で固定してある。そこから少し下ったところがちょっとした広場のように均されている。そこに巨大な送電鉄塔が立っていた。四隅を苔生したコンクリートブロックで固定され、そこから上方に向け足が伸びている。(250頁)

描写とは、モノの輪郭をなぞることだ。そうして描き込まれたモノは、しかしどれだけ言葉を費やしてもモノそのものにはなり得ない。殊に幽霊の場合はそうで、なぜなら幽霊とは「不在」の表象にほかならないから。鈴木氏はそうした言葉の性質を極めて意識的に自身の怪談に取り入れている。

本書において、読者はさまざまな「不在」に出会う。けれどそうした「不在」を丁寧に積み重ねていくことで、最終頁にまで辿り着いた読者の前に、なにか途方もなく得体の知れないもの、強いて言えば「心霊」という体験そのものを「現前」させる術式が、本書には組み込まれているのではないか。少なくとも、私は本書をそのような体験として読んだ。

理屈っぽいことを縷々書き綴ってきたが、そう構えて読む必要はない。収録作はそれぞれに滋味深く、固有の味わいを持つ奇譚ばかり。じっくり堪能すればよい。
本書には人間を見境なくとり殺す悪霊も、何世代も続く呪いも出てはこない。読み終えたあとには、不安と恐怖、そして一抹の懐かしさと清々しさが残るだろう。

この人の書いたものならなんでも読みたいと思わせる、素晴らしい一冊だった。
前二作もしみじみとよいので、未読の方は是非。