悲鳴窟

怪談その他

わからなさと踊れ 高田公太「あるファンからのメール──愚狂人レポート」感想

気狂いとはおのれのことしか考えぬ者の謂である。

エリアス・カネッティ「眩暈」池内紀訳)

 

ああ、バートルビー! ああ、人間!
ハーマン・メルヴィル「書写人バートルビー柴田元幸訳)

 

高田公太さんのnote連載小説「あるファンからのメール──愚狂人レポート」https://note.com/kotatakada1978/m/me4db3307e0d5(以下『愚狂人レポート』と表記する)が完結した。わたしは昔から連載を追うのが苦手なので、完結したらまとめて読もうと思っていた。それでいよいよ読みはじめた。
ここ最近は怪談の取材と執筆に明け暮れていて、小説──特に現代の──を読むことから離れていたのだが「愚狂人レポート」は一読、傑作だと思った。続けて二度読んだ。

途中までわたしは、これは語り手ちはるの成長小説ではないか? と考えながら読んでいた。愚狂人A子と向き合うことで、自身の「まとも」なパーソナリティーを揺さぶられ続けた彼女が、新たな愚狂人として生まれ変わる、というような。
じじつ、ちはるが「まとも」と「バカ」の狭間で引き裂かれそうになっているとおぼしき描写はいくつかある。特にアキラから送られてきた自身のレコーディング音源を再生するくだりは秀逸で、ほとんど実話怪談を髣髴させる無気味さである。

ただし、ちはるは最後まで「バカ」になれない。かといって玲香やボンベさんと同じように「バカ」を面白がる視点をも獲得できず、彼女の夫が体現するものわかりのよさ(という名の無関心)にも苛つきをおぼえる。

これはなにもちはるにかぎったことではない。
わたしだって、A子のようにはなれない。一緒にいて「面白い」と感じるかどうかもわからない。きっとツラいだろう。遠目で見るか人づてに聞くかして「うわあ」と思う程度が関の山にちがいない。
そういうスタンスは玲香やボンベさんからすれば「面白くない」だろうし、わたしは反対に、A子のごとき愚狂人に積極的にコミット、コンテンツ消費する玲香やボンベさんのことを悪趣味且つ残酷であると感じる。

もっと言えば、わたし自身のなかにA子的な要素が皆無であるとまでは言わないが、相当にかけ離れた人物であるとは断言できる。というのも、わたしはよく知らない人に「ヤリたい」とDMを送ったりしないし、知り合って間もない人の財布から一万円をくすねたりはしないからだ。

ゆえにわたしは「われらみな愚狂人」式の文言には、首を傾げてしまう。

たしかにわたしたちは「まともで賢明」と「狂っていてバカ」のバランスによって他者をジャッジし、またそれをフィードバックすることで自身の同一性を規定するのだが、だからといって両者の割合が9:1の人と1:9の人を同列に扱うのには無理があるだろう。
そもそもこの「愚狂人レポート」という小説において、A子がすこしでも「まともで賢明」な顔を見せていたかといえば疑問であって「ただ酒を飲む」「屁が臭い」「好きな異性にはわりと一途」みたいな部分を恣意的に当て嵌め「じぶんの中にもA子はいる」と言ってしまうのは、結局のところ、A子という剥き出しの「バカ」をわかったかのように振舞うことにほかならない。

ちはるにはもちろん、玲香にもボンベさんにもA子のことはわからない。
わからないからこそ揺さぶられるのだし、人によってはそれを「面白い」と思う。
無論、わたしにもA子のことはわからない。おそらくは作者自身にも、完全にはわかっていないだろう。

なぜなら、小説とはわかったかのように振舞うために書くのではなく、わからないものと切りむすぶために書かれるものだからである。
愚狂人A子という強烈な個性を創造し、そのわからなさと最後までダンスし続けた「愚狂人レポート」は、より多くの人に読まれてほしい小説だ。