悲鳴窟

怪談その他

「不条理(系)怪談」についての覚書

「不条理(系)怪談」という言葉を怪談界隈の人たちはわりと普通に使っているように思える。
じぶんにしてもそれは同様で、「不条理(系)怪談」を得意とする作家といえば、例えば我妻俊樹、朱雀門出両氏の名前がすぐに思い浮かぶ(現にこの二人が「不条理(系)怪談」の二大巨頭だろう)し、若手の怪談作家では、鈴木捧氏、ふうらい牡丹氏などもそうだろう。もっと言えば、じぶん自身もそのあたりの系譜に連なるとの自覚がある。

とはいえそれでは「不条理(系)怪談」とは、つまるところどのような話なのか、あるいは怪談における不条理とはなにかとの問いを立てたとき、これに即答できる人は稀ではないかと思う。
なぜなら怪談とはそもそも世界の条理に反した出来事を語るジャンルだからであって、死んだ人が生前の姿で現れるなんてのはその最たる例だ。

じぶんは、怪談とは基本的に、本来あるべきものがない、反対にないはずのものがある、この二点に還元されるのではないかと前々から考えており、してみればここで言うところの「べき」「はずの」とは、世界の条理そのものを体現する言葉だ。
怪談とは、ある「べき」「はずの」世界に否を突きつける物語言語の謂である。

そのように仮定した場合、「不条理(系)怪談」という言葉には致命的なトートロジーが内包されているように思われる。不条理こそ、怪談の要諦なのだから。

しかし一方で、「不条理(系)怪談」というジャンルを、以下のように定義してみることも可能かもしれない。すなわち「不条理(系)怪談」とは、単にわけのわからない話というのではなく、怪談という物語形式における条理に反した物語、反物語なのであると。

怪談もまた物語の一形式である以上、そこには間違いなく固有のルール(文法)が存在する。「不条理(系)怪談」においても斯様なルールは遵守される必要があり、そうでなければ読者や視聴者はそれを怪談と認識し得ないはずだ。
そのギリギリのルールの枠内に踏み留まりながら、怪談という表現形式に固有の条理を突き崩してしまう話、それこそが「不条理(系)怪談」と呼ばれるものの正体ではないか。

そうであってみれば、わたしたちが「不条理(系)怪談」に触れたときにおぼえる戸惑いとは、人間の世界認識において起こり得ない事態に対する戸惑いというよりは、怪談という物語ジャンルにおいて起こり得ない事態に対する、きわめてハイコンテクストな戸惑いとして捉えられる。わたしたちは世界に触れるのではなく、言葉に触れるのだ。