悲鳴窟

怪談その他

【実話怪談】気をつけなされ

ある晩、津田さんが日課のジョギングをしていると、向こうから茂木さんが歩いてきたので緊張した。
茂木さんはこのあたりでは有名な変なおじさんで、蓬髪に無精髭、真冬でも甚平に雪駄履きで、日がな一日、わけのわからない譫言を呟きながら近所を徘徊しているのだ。
散歩中の犬を蹴りつけたり、ヤンキー連中に絡んで反対に殴られたりして警察が呼ばれたこともあった。
そんな茂木さんとひとけのない夜道で鉢合わせてしまうことが、津田さんにはおそろしかった。

茂木さんとの距離は約二十メートル、あいだには曲がり角や身を隠す場所はない。
といって不意にUターンなどした場合、逆に相手を刺激しかねない。
なにをされても言われても、無視して通りすぎるしかない。
南無三、とばかりにスピードをあげた津田さんが、茂木さんとすれちがった瞬間、
「気をつけなされ」
はっきりそう声をかけられた。
「えッ、何に?」と津田さんは思ったが、立ち止まってそう訊いたりはしない。
そのまましばらく走り続けて、そッと振り向いてみると、茂木さんは何事もなかったかのようにふらふらと歩いていた。

いつものコースを走り終え帰宅した津田さんだが、さっきの「気をつけなされ」が妙に気になる。
茂木さんは「気をつけなさい」ではなく、たしかに「なされ」と言っていたはずだ。
というのも最後の「れ」の部分を「なされえェ」と間延びする感じで発音していて、そこは聞き間違えようがないと思ったのである。

そんなことを考えつつ居間でお茶を飲んでいたら、さぞや浮かぬ顔をしていたのだろう、シャワーから出てきた奥さんに「どうしたの?」と訊ねられた。
「いや、それがさっきね」と茂木さんとの遭遇について話しはじめたところ、左耳の聴覚がおかしくなってきたのだそうだ。
左耳だけが、まるで水中にいるような具合で、じぶんの声がくぐもって聞こえる。
不思議に思い、プール後の水抜きをする要領であたまを軽く振ると、耳の穴からなにかが転がり出る感覚があった。
そのなにかがテーブルの上に落ちて、コツンと軽い音を立てる。
奥さんが震える声で「なにこれ?」と言った。
それは色も形も大きさもダンゴムシが丸まったように見えるもので、つまみあげるとザラザラとした粉っぽい感触が指先に伝わった。

「気をつけなされ」という茂木さんの言葉が、津田さんの脳裏をよぎったという。