美容師のセイイチさんが中学生の頃というから、いまから二十年ほど前の話である。
ちょうどお盆の時期で、両親は留守にしていたという。
「墓参りにでも行ってたんじゃないかな」
そうセイイチさんは述懐したが、すぐに打ち消して、
「いや、でもそんなはずないな。うちの両親、おたがいの親と折り合い悪くて、墓参りなんてする柄じゃないんですよ。僕自身、一度もそんな経験はないし」
じゃあなんで、あの日に限ってうちにだれもいなかったのかなあ……。
セイイチさんは今更のように首を捻りながら話を続けた。
とにかくその日、彼は昼頃まで惰眠を貪っていて、目覚めた時にはもうじぶん以外の家族はだれもいなかったのだそうだ。
レトルトのカレーを食べながらTBS系列『アッコにおまかせ!』をぼんやりと眺めていた記憶があるので、おそらくは日曜日だったはずだ。
食器を洗っていたら、家の電話が鳴った。
なんとなく両親からである気がしてセイイチさんがそれに出ると、
「テンゼンさんのお宅ですか?」
と聞き覚えのない男の声で訊ねられた。
「そんな『テンゼン』なんて名前の人、知り合いにもだれにもいないんです。だからまあ、ふつうに間違い電話だと思うじゃないですか」
彼が「ちがいます」と答えると、男は沈黙したが、なにか非常に切迫した雰囲気が電話越しに伝わってきたという。
息を詰めて、セイイチさんの出方をうかがっているようだった。出方といっても、彼には一言もないのであったが。
「失礼しました」
怒気を孕んだ調子で男は言って、電話は切られた。
間違い電話にしてはおかしな感じだったな。
首を傾げつつ、セイイチさんが受話器を置いたその直後、今度は玄関のインターホンが鳴ったのだという。
目の前のモニターを見やる。
友人のRであった。
「そいつ、同じマンションに住んでたんです。だからそんなふうにいきなり訪ねてくることもめずらしくなかったんですよ」
おおかた暇をしてやってきたのだろうと思ったセイイチさんはインターホンの受話器を取り「どうした?」と訊いた。
するとRは、ほんの一瞬、そんなところから声が聞こえるなんてまったく心外であるというような表情を浮かべ、モニターにぐぐッと顔を近づけ、こう言ったのだという。
「テンゼンさんのお宅ですか?」
セイイチさんは総身に冷水をかけられたような寒気におそわれた。電話の男と同じ声だった。明らかに、Rの声ではなかった。
「こいつはぜったいにちがうって確信しました。それで真っ昼間なのにものすごく怖くなって、なにも答えずにリビングに引き返したんです」
インターホンは鳴り続けていたが、セイイチさんは心を殺してひたすらテレビを観ていたという。
十五分ほどしてようやくインターホンは鳴り止み、彼はホッと安堵のため息をついた。
が、窓のほうを見ると、ついさっきまで明るかった空が暗い。
「おや?」と思ったのも束の間、今度は窓の向こう、数十メートル離れたところにある高層マンションの屋上あたりに、妙なものが見えた。
それは赤い光の帯のようなものだった。
非常に緩慢な速度で天から降り注いでいるかに見えるその光は、セイイチさん曰く「垂直に落ちてくるオーロラ」のようだったという。
その光は暗い空にぼんやりとした赤を放ち続けていたが、しばらくすると、壊れかけの電球のようにパチッパチッと明滅し、唐突に消えた。
「その瞬間、またしても急に怖くなったんですよね。見てるあいだは、なんだかわからないけどきれいなもんだなあ、くらいに思ってたんですけど」
気を紛らわすためにテーブルに放り出してあったケータイを手に取ると、数件の不在通知が入っていた。
発信者の名前は「天善」だった。
そんな名前の人物を電話帳に登録したおぼえはない。
「もう完全にダメだと思って、ケータイも置きっぱにして近所のコンビニに駆け込んだんですよ。そこで漫画を立ち読みしてたら、いきなり肩を叩かれて」
振り向いた先には両親と妹が立っていて、なぜなみな一様に怒ったような表情を浮かべていた。
「いい加減にして帰るぞ」
と父親が言った。
それでセイイチさんはわけもわからず帰宅したのだが、両親は喧嘩でもしたのか、むっつりと黙り込んでいた。妹とはそもそも昔から仲がよくないので、口をききたくなかった。だから結局、その日の件はなあなあになってしまったのだという。
電話帳に記載されていた「天善」という名前は、それを消してしまうのもおそろしい気がしてそのままにしていたが、何度か機種変更を繰り返しているうちに、いつの間にか消去されていたとのことである。
それから数ヶ月後、両親はセイイチさんになんの相談もなく離婚した。
もともと夫婦仲が微妙だったことは彼も知っていたのでさして疑問には思わず、母親とともに隣町のマンションで新生活をはじめた。妹は父親についていった。
「しばらくして父親と会ってる時に、そういえば近所のマンションが火事で焼けたぞって言われて、あッ! と思ったんですよね。そうです。例の赤い光が落ちてきてた、あのマンションだったんですよ」
現在に至るまで、セイイチさんは更に二度、その赤い光の帯を目にしたことがあるそうだが、そこで火事が起きたかどうかは確認していないということだ。