悲鳴窟

怪談その他

【実話怪談】カメ田カメ吉

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現在、銀座のクラブで働く花音さんは小学校低学年の頃、両親と車ですこし離れたところにある自然公園に遊びに行った。そしてそこにある池で、一匹のミドリガメを捕まえたのだという。

花音さんはそのカメをカメ吉と名づけた。飼いはじめのうちこそ甲斐甲斐しく世話をしていたものだが、次第に億劫になり、最後にはエサやりも水槽の掃除も母親や弟に任せきりにしていたそうだ。
それである日、ついに激怒した母親がカメ吉を家の裏手にあるドブ川に放り投げてしまったのである。
花音さんは狂ったように泣き叫んだ。泣き叫ぶどころでは済まなかった。教科書をびりびりに引き裂き母親の腹に頭突きをかました。そんなことをしても、あとの祭りだった。
たも網でもってむなしくドブ川を浚ってみたものの、網に入るのはおそろしく臭い沢蟹の死骸や用途の知れないゴムのかたまりみたいなものばかり。
花音さんは今更のようにカメ吉に詫び、涙を流した。
その後、花音さんの家ではなんであっても生き物を飼うことを一切禁じられたのだという。

カメ吉の一件から十五年ほどの月日が経ち、花音さんは歯科衛生士の資格を手に東京に出てきた。渋谷区の歯科医院に二年ほど勤めたのち、なんだか日々の仕事に惓んでしまって退職届を出した。

次の仕事が見つかるまでの腰掛けのつもりで面接に行ったいまの職場は、銀座という場所柄もあってか、上京前の花音さんが水商売と聞いて想像していたような下卑た客もすくなく、ママや先輩たちもよくしてくれる。
しかしつい先日、花音さんはそのお店でおかしな体験をしたのだという。

その日、花音さんは完全オフだった。ひさびさにひとりでゆっくりしようとまずは朝風呂に浸かり、好きなYouTuberの動画を観ていると、お店にいるママから着信があった。
なんでもママの古い馴染みで上客のひとりがひさびさに顔を出したいと言っているのだという。持病の関係もあり、いまのこの時期にお店が混み合う夜の営業時間帯は避けたい、だから日中の人がいないあいだに、ちょっと遊びに行けないか? 都合がよければ今日にでも、と。
急ではあったものの、ママとしてはこころよくそれを引き受けた。それでお店から最も近い場所に住まう花音さんに電話をかけてきたのである。
正直、ちょっと面倒だなとは感じた。だが、ママの上客となれば行って損はしないだろう。
そう判断した花音さんがお店に向かってみると、そのお客はもう来ていた。取引先の倅だか親戚の子だとかいう若い男性を伴っており、花音さんはその人のとなりにつかされたという。
男性は三十をちょっと過ぎたくらいに見えた。背は低いが、体格のがっしりした人で、丸坊主だった。花音さんはお店に来る客で丸坊主の男性を見たのははじめてだったからいささか面食らった。
「ぼく、こういうところにはあまり来ないから、緊張しますね」
男性はそう言って、花音さんの顔をまじまじと見ると「おや?」という表情を浮かべた。
「大変失礼ですが、どこかでお会いしたことがありませんか?」
花音さんのほうでは記憶にない。そうやって会話のとっかかりを作ろうとしているのかと思っていたら、
「小さい頃、××公園に行かれたことがあるのでは?」
花音さんはおどろいた。というのもその公園は彼女がカメ吉を捕まえた場所に相違なかったのである。
「ええ! なんでわかるんですかあ?!」
花音さんがのけぞると、男はニッコリ笑って、
「ご無沙汰しています。カメ田カメ吉です」
「は?」
花音さんは硬直した。
なんでこの人がカメ吉のことを知っているんだろう。いや、それもそうだが「カメ田」とはいったいどういうことだ。カメ吉には歴とした姓があったのだろうか。なにからなにまでわからない。
「お懐かしい。あの頃はつねに生きるか死ぬかの日々でしたが……」
男は遠い目をして水割りを飲みながら一人語りをはじめたという。
大半の内容は花音さんには理解できなかったのだが、
「成らぬ堪忍するが堪忍」
「親の因果が子に報い」
「酔い醒めの水下戸知らず」
などと落語でよく耳にするような慣用表現を多用していたことはおぼえているという。
最後にカメ田カメ吉は「今度はふたりでお茶でも」と囁いて名刺を卓に起き、
「LINEのQRコードも載せていますから」
そう言って店の奥に消えていった。
花音さんはトイレだろうと思ったが、男はいつまで経っても戻ってこない。
なので彼女が様子を見に行くと、トイレのドアは開け放してあり、中にはだれもいなかった。
なんなのこれ、と混乱したあたまで席に戻ったら、さっきまで男が座っていたところにはグラスも先ほどの名刺もなにも置かれておらず、最初からそんなカメ田カメ吉なんて者は存在していないかのようであった。
その後はママもお客もカメ田カメ吉を名乗る男のことにはまるで触れようとしないまま過ぎてゆき、結局、喉元に魚の骨が刺さったような気分のまま、花音さんは仕事を終え帰宅したのだという。

この話はこれまでなのだが、後日、お店に匿名の花束が送られてきて、そこには、

《いまはまだ人生のまえがきなんです》

と書かれたメッセージカードが添えられていた。ただしそのこととカメ田カメ吉の一件になにか関係があるのかどうか、筆者にはもちろんのこと、花音さんにもわからないのである。