悲鳴窟

怪談その他

【実話怪談】カール

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自称中堅どころのライターだという松縄さんが最近越した家の近所にはわりと古くからやっているおもむきの煎餅屋があって、そこのうちではカールという名のビーグル犬を飼っている。
松縄さんは仕事柄、どうしても家に籠りがちなので、早朝に一度、夕方に一度、散歩に出ることにしている。それで煎餅屋の前を通りがかると、カールはいつも店の前で腹を出して寝ているのだ。
松縄さんは犬好きである。だから毎日のようにカールの腹を撫でてやる。ついでにおかきの一袋も買わねば失礼だから、そうなるとしぜん、煎餅屋の主人とも世間話くらいはするようになる。
現在の主人はその家の次男坊だという。長男は病気がちのため家業を継げず、いまは実家兼店舗の二階でほぼ寝たきりの生活を送っているとのことだった。
カールはもともとはその長男が知人のブリーダーからもらってきた犬なのだった。
自家の内幕を妙に仔細に語る主人に、
「なるほど、そうだったのですねえ……」
などと曖昧な受け答えをしながら、松縄さんはカールの腹を撫でた。カールはふごふごと鼻を鳴らしていた。

そんなある日、松縄さんはカールの夢を見たそうだ。
夢の中でカールは、中年の太った男になっていた。おどろくほど突き出た太鼓腹のわりに、頬のあたりが不健康に落ち窪んでいた。
そんなすがたで現れたにもかかわらず、松縄さんにはそれがカールだとすぐにわかったという。
なぜなら男は話の合間にふごふごと鼻を鳴らしており、その間隔や音の響き具合が腹を撫でられている時のカールそっくりだったのである。
「おれだってよお……このままじゃよお……ふごッ……いけねえと思ってるんだけどよお……それにしたってよお……ふごッ……こうなっちまったもんはよお……ふごッ……しかたねえじゃねえかよお……ふごッふごッ」
男が暗い顔をしてそんなようなことを言い鼻を鳴らすたびに、鼻汁が飛沫になって松縄さんの顔にかかる。
松縄さんはその都度「マジで帰りたいな……」と思うのだが、しかしいまここでカールを見捨ててはいけない、最後までこいつに付き合ってやらねばならないという謎の義務感に支えられて、無言で鼻汁に耐えている。
するとそのうちカールの、というか中年の男の身体がふわふわと宙に浮いてゆき、それでも男はふごふご愚痴り続けているのだけれど、次第にその声も聞こえなくなり、最後には夜空の星のように小さくなった男は、使い古されたアニメーション表現のようにキラーンと一度輝いて消えた。

目が覚めた松縄さんは、じぶんが滂沱の涙を流していることに気づき、我ながら気味がわるかった。
なんという夢を見てるんだおれは、と思いはしたものの、顔を洗い朝食をとり、日課の散歩に出かける頃にはそんな夢のことはすっかり忘れていたという。
ジャージ姿でいつものコースを歩いていると、煎餅屋が見えてきた。
店の前に人だかりができている。
それを目にした瞬間、松縄さんは胸騒ぎをおぼえ、小走りに駆け寄った。
煎餅屋の奥ではひとりの男が喚いていた。
男は、おそらくは近所の住人であろう数人の男たちの手で床におさえつけられていたが、それでも口から泡を飛ばし、ふごふごと鼻を鳴らしながら、大声で泣き叫んでいるのだった。
その男の顔を一目見て、松縄さんは慄然とした。
カールだった。
もとい夢で見た中年の男であった。
男は不明瞭な声でなにかを訴えていたが、
「おれだってよお……このままじゃよお……ふごッ……いけねえと……」
そこまで聞いた時点で松縄さんはゾッとして、煎餅屋の前を立ち去った。やや遅れて、救急車とパトカーのサイレンが聞こえてきた。

後日、近所の人に聞いたところによると、なにか精神的な問題で二階に蟄居していた長男が突如暴れ出し、その家の主人すなわち次男と奥さんを包丁で斬りつけたのだという。
ふたりとも生命に別状はなかったとのことだが、その後、くだんの煎餅屋はシャッターが下りたままで、松縄さんは現在に至るまで家人のすがたを見ていない。カールがどうなったかも無論わからないのである。