悲鳴窟

怪談その他

【実話怪談】くちうつし

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S区にあるラブホテルで夢子さんは一度、とても厭な体験をしたことがある。

バーで知り合ったばかりの男にもう一軒行こうと誘われた時点で、そういうことになるだろう、とは思っていた。が、先導する男は近場のホテルを通りすぎ、裏道をずんずん進んでいく。
男は路地のどん突きにある古びたホテルの前で歩を止め、ここにしよう、と言うが早いか夢子さんの了承も得ずに自動扉の向こうに消えていった。
入口脇に出ている料金表を見ると、なるほど相場よりだいぶん安い。界隈では破格とも言うべき値段設定で、夢子さんはゲンナリしたという。

案の定、部屋は清潔とは言い難かった。
エアコンは音ばかりうるさくて吐き出される風は湿ッぽくなまぬるい。革張りのソファーからは綿がはみ出しているし、壁紙は黄ばんでタバコ臭い。シャワー室のタイルはぬるぬるとすべり、浴槽の中ではチョウバエが十数匹死んでいた。
それでもまあ、することは済ませてしばしベッドで放心していたら、とつぜん、隣に寝ている男の身体がビクンと痙攣した。
「いま、浴室から変な音が聞こえなかった?」
男が不安そうな声音で訊いてきた。
なにも聞こえなかったよ、と返すと男は、
「女の笑い声がしたんだけどなあ」
そう言っていきなりすうすうと寝息をたてはじめたので夢子さんは最初なにかの冗談かと思ったが、どうやら男は本当に眠っているらしかった。
なんだよこいつ……と思いつつ、夢子さんのほうでも背中から布団に吸い込まれていくような猛烈な眠気をおぼえていた。

どれほど眠ったのかわからない。
目覚めると夢子さんはひとり全裸で大の字になっていた。となりに寝ていたはずの男がいない。口の中がねばついて気持ちわるい。部屋には紙を燃やしたような変なにおいがただよっていた。
口をゆすいだら赤錆色の水といっしょにワカメの食べ滓のようなものがたくさん出てきたという。
男はどうやら夢子さんに一言もなく部屋を出たらしかった。腹は立ったが、部屋代は前精算だったしもう二度と会うこともないだろう。そうじぶんを納得させて、夢子さんはホテルを後にした。

帰りの電車の中で無性に胸騒ぎをおぼえた夢子さんが某事故物件公示サイトでそのホテルを調べてみたところ、一言「練炭自殺」とだけ記載があり、暗澹とした気分になったそうだ。

それから一か月ほどして夢子さんがやはりS区のはじめて入る立ち飲み屋で飲んでいたら、奥のほうの席にいる男がこちらをちらちらとうかがっていることに気づいた。
よく見ればそれはあの時の男で、夢子さんと目が合うと情けない表情を浮かべながらこちらにやって来た。
「こないだはごめんね。朝イチで仕事があったもんで、先に帰っちゃって」
こいつはたしかあの時、次の日は休日と言っていたはずだよな、と夢子さんは男の言い訳を白けた気持ちで聞き流していたが、
「ところでその後、体調はどう?」
そんな言葉を皮切りに、妙にこちらの健康状態を気にしてくるので、夢子さんは、
「あなたにそんなこと気にかけてもらう筋合いはないんだけど」
と言った。男は一瞬、躊躇するような間を置いてこんな話をしたのだという。

あの日、行為の後で抗しがたい眠気におそわれた男が目覚めると、まるで何者かに羽交い絞めされているように身体が動かなかった。
金縛りだ! と男は思った。生まれてこの方、そのような体験をしたことは一度もなかった。肺のあたりをぐいぐいと押されるような感じもする。身動きがとれないのもおそろしいが、このまま呼吸が止まってしまうのではないかという恐怖を感じたそうだ。

《うえっ……おっ、おうぇっ……か……っ……うううぉ、ええっ……っぐ……えっ、うう……》 

すぐとなり、夢子さんが寝ているあたりから、いやな音がした。
見たらきっと後悔するだろう。しかしなによりも、このまま、という留保された時間が耐えがたかった。男は視線を横に向けた。
夢子さんの顔の上に、女が覆いかぶさっていた。
いまにも破裂しそうなほど膨れあがった顔から、明らかに生きている人間ではないと知れた。

《げぇ……うぐぇぇっ……お、ええっ……うぐぅっ……ろぉぉ、ごぅぅえっ……げぉっ……》

女はしきりにえずいていた。えずきながら、赤黒くねばついた液体を吐いていた。
でろでろと吐き出された液体の先には、仰向けに眠る夢子さんが大口を開いている。
またしても、意識が遠くなるのを感じた。

「それでまた目が覚めたら朝方でさ……金縛りは解けてたし、きみは何事もなかったように寝てたから、まあ、もう大丈夫かなと思って……。それで……体調とか、問題ないんだよね……?」
夢子さんはもう酒を飲むのも、これ以上男の顔を見るのも厭になって、一言も口をきかずに店を出たということである。

 

という体験談を伺ったのはいまから五年前のことだ。これは珍しい話だな、と印象に残っていた。
妖怪が寝ている人の《息を吸う》、あるいは《息を吹きかける》という話は日本の民間伝承や古典怪談にも散見される。『桃山人夜話』に描かれた山地乳(やまちち)や、ラフカディオ・ハーンの「雪女」が有名だろう。
澤田瑞穂『鬼趣談義』によれば、「鬼吹」といって、人間に息を吹きかける鬼の話は中国にも多いそうだ。また寝ている人に唾液を飲ませる幽霊の話も『聊斎志異』にあったはずだが、吐いた血を口移しするというのは、寡聞にして類話を知らない。