悲鳴窟

怪談その他

【実話怪談】帽子

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哲雄さんがまだ二十代半ばで、よくない知り合いから紹介されたよくない仕事をしていた頃の話である。

ある朝の五時頃、哲雄さんは前夜にひどい飲み方をしたせいで自宅に帰るのも億劫だった。宿酔いの頭を抱えながら寝床を貸してくれそうな女の家に向かっていたところ、あるアパートの前に異様な数の段ボール箱が積まれているのが目にとまったという。パッと見でも、四、五十箱はありそうだった。

哲雄さんがなんとなく気になってのぞいてみると、箱の中身はどうやらすべて帽子であるらしかった。野球帽にハンチング、女性物のつば広帽子にソフト帽、年代物のシルクハットや名前は知らないが大正時代のモガがかぶっているような釣鐘型の帽子など、とにかくあらゆる種類の帽子が無造作に詰め込まれているのである。

「帽子屋の夜逃げか?」と哲雄さんは不審に思った。しかしそのどれもが明らかに使い古しであるように見える。
急に気味がわるくなってきた哲雄さんはその場を離れ女の家に向かおうとしたところでハッとした。というのも彼が目指していたアパートとは、まさにいまじぶんの目の前にあるその建物にちがいなかったからである。

哲雄さんは女の顔を思い出そうとした。記憶の中の女はつば広の帽子を深くかぶっていた。目鼻はすっぽりと帽子に覆われ、唯一露出している口唇は烏賊墨を塗りたくったように真ッ黒だった。宿酔いが急速に覚めていくのを感じた。踵を返し、駅のほうに向かった。

その晩、哲雄さんがいつものバーで飲んでいたら顔馴染みのバーテンがこちらを横目で盗み見てくるのが気になった。どうしたのか? と訊ねると、バーテンは一瞬言いよどんだ後で、
「今日、帽子かぶってませんでした?」
バーテンによるとその日、哲雄さんは店に入ってきた時からあまり見慣れない、強いて言えば超正統派のユダヤ人がしているような帽子をかぶっていたのだが、ちょっと目を離した隙に無帽になっていた。そうしてそれをどこかに脱いだ様子もないので気になっていたのだという。
「そんな帽子は最初からしてないよ」
と言いながら哲雄さんは今朝方のことを思い出して首筋がざわざわしてきた。すると隣席で飲んでいた知らない男が、
「いやー、おにいさん、たしかにかぶってたよ帽子、かっこいいやつ」
と会話に割り込んできた。それが妙にしつこいから気分を害した哲雄さんが会計を済ませ外に出ると、店の階段ですれちがった若い女が彼の頭の上のほうをチラッと見た気がした。河岸を変えてもう一杯という気もなくなり、哲雄さんはおとなしく帰宅することにした。

それでアパートの前までたどり着いた哲雄さんが二階のじぶんの部屋を見上げたところ、窓際にカンカン帽のようなものをかぶった人影が立っていた。影はメトロノームを思わせる機械的な動きで上体を揺らしていた。

気づかず部屋に入らなくてよかったと哲雄さんは思った。その晩は近所の友人宅に泊めてもらった。しかしこのおかしな現象は今後いつまでじぶんにつきまとうのだろうかと考えると、不安で動悸がした。お祓いとか除霊とかそういう次元の問題なのかどうかもよくわからなかった。

結局、哲雄さんはその後友人の紹介で三人の霊能者のもとをたらいまわしにされた。そのおかげなのかどうか、現在ではもうおかしなことは起きていないそうである。

ただその一件から半年ほど経った頃、当時の仕事でポカをやらかして上司の上司だとかいう凶暴な男にウィスキーの瓶で頭を殴りつけられ、頭蓋骨陥没の大怪我を負った。後頭部にはかなり目立つ傷が残った。仕事も失い、しばらくは食うにも困ったということだ。

哲雄さんは昔もいまも幽霊とか死後の世界の存在には懐疑的である。だが、ふとした一瞬の過誤を犯したせいでおのれの意に沿わないなにかと縁を結んでしまうようなことはたしかに、それも実は頻繁にあって、大概、そうしたことをきっかけに人生はすこしずつ混線してゆき、じぶんのものだかだれかのものだかよくわからないものになってしまうのだという持論を胸にいまは実家の洋食屋を継いで結婚し、二人の子宝にも恵まれている。