悲鳴窟

怪談その他

【実話怪談】おじさん

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台湾人留学生の永波さんがアルバイト先の個人経営の居酒屋で立ったままうとうとしていると、入口の自動扉が開く気配がした。
「いらっしゃいませー」
咄嗟にそう言いながら腕時計を見れば、深夜三時をまわったところだった。二十四時間営業の店とはいえ、こんな時間に客が来ることは珍しい。
入ってきたのはグレーの背広を着た肥り肉のおじさんだった。羽毛のようにふわふわした頭髪が、強すぎる空調に晒されて寂しげになびいている。
「お好きな席にどうぞー」
永波さんがチラリと視線をやると、奥のボックス席に腰掛けるのが見えた。欠伸を噛み殺しながらおしぼりとメニューを持ってそちらに向かい、ボックス席を覗き込んだところで、
「あれェ?」
と声が出た。ほんの一瞬前、たしかにこの席についたはずのおじさんがいない。店の構造上、トイレに行くには永波さんとすれ違うはずである。
寝ぼけていたのかな? 永波さんが首を傾げていると、厨房から「うわあああッ!」という叫び声がした。
直後、バタバタバタッ……という大袈裟な足音とともに店長が飛び出してきて、永波さんの肩を掴んだ。
「あああ、あれ、あれ……オバケが⋯⋯変なもんが……」
呂律のまわらない口調でそう言いながら店長はガクガクと震えている。
「オバケ?」
永波さんには店長がなにを言っているのか、さっぱりわからなかった。なぜなら当時、まだ彼女は「お化け」という日本語を知らなかったのである。店長はなんとか説明を試みようとするものの、混乱しているせいか、おそろしく早口で文法も支離滅裂だから、余計にわけがわからなかった。
それでしかたなく怯える店長の背中をさすり、大丈夫、大丈夫……と繰り返しているうちに、気づいたらそういうことになっていて、その日から永波さんと店長はのっぴきならない関係に陥ってしまったのである。店長は妻帯者だった。

結局、その日見た「お化け」のことを店長は一度も話すことなく、ふたりの関係は一年ほどで終わりをむかえたが、その間何度か、永波さんはやはり同じ居酒屋の店内でおかしなものを見かけたのだという。
それはあのおじさんによく似た頭髪の薄い男で、ほんの一瞬、永波さんの視界の隅にあらわれては電灯のスイッチを切り替えるように消えていく。そんな時には決まって「店内が寒すぎる」とか「酒が傷んでいる」というようなクレームが入るのだそうで、永波さんは内心、またかよ……とうざったく思っていたそうだ。
店長との関係も切れ、アルバイトも辞めた永波さんだが、いまでもたまにその店の前を通ることがある。以前にも増して流行っていない様子だが、それでもなんとか営業は続けているらしいとのことだ。