悲鳴窟

怪談その他

【実話怪談】ヤニ茶漬け

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山形県在住の磯峯さんの体験談である。

磯峯さんは自他共に認める山歩きの達人だ。
その日も早朝から山菜取りに出かけたのだが、気分が落ち着かない。
胸がソワソワして、通り慣れているはずの道を間違えてしまった。つねにはあり得ないことである。
幸いすぐ気付いて引き返した磯峯さんは、見覚えのない場所に出た。
ぽっかりと開けた空間で、木々の隙間から日の光が差し込んでいる。

こんなところがあったかな?

訝しみながらもたばこに火をつけ、あたりを見まわすと、一本の木が目に入った。
ごくあたりまえの樹木だが、妙に気になる。
しばらくその枝振りを見つめていた磯峯さんの背筋が、突然、水を浴びたように冷たくなった。

あ、ダメだ、ここで首吊ってる。

磯峯さんの脳裏に、木の枝に縄をかけ、だらりとぶら下がった男性のイメージが浮かんできたのだ。
というか男性の縊死体は、はっきりと磯峯さんの眼前にあった。
紫色に鬱血した顔面からベロベロバーをするように舌を垂らしたそれは、縄の軋む音に合わせて小刻みに揺れている。
先にも述べたように、磯峯さんは山歩きのベテランである。
同じく山には詳しかった父親や祖父、先輩の猟師からは、山中で遭遇する奇妙な出来事について、幾度となく聞かされていた。
いまじぶんの身に起きていることは、そのどれにもあてはまらない。

なにかまずいことになっている。

無意識に後退りした磯峯さんの手から、たばこが滑り落ちたその瞬間、縊死体がこちらに、ぐりん、と顔を向け、笑いかけてきた。
気づいた時にはもう、磯峯さんは無我夢中で山道を疾走していたという。
ほうほうの体で帰宅した磯峯さんは、土足で台所に駆け込むと、炊飯器のごはんを丼に大盛りよそい、冷蔵庫から出した茄子漬けで茶漬けを作り、ガツガツと無心にかきこんだ。
磯峯さんの意識はそこでぷつりと途切れる。

磯峯さんは台所で倒れているところを妻に発見され、救急搬送された。
急性のニコチン中毒であった。
手持ちのたばこを丼飯の上にぶちまけ、それで茶漬けをかきこんでいたのだ。
すぐに胃洗浄が行われ、大事には至らなかったが、磯峯さんはその後、山に入るのをぱったりとやめた。

「狐だか狸だか知らないけど、山にはおっかないものがいるよ。運悪く出くわしたら、もうアウト。そういうものが、たしかにいるよ」

その山でだれかが首を吊ったという記録は、どこにもないそうだ。