悲鳴窟

怪談その他

【実話怪談】ビルが建ってる

ベトナム人留学生のキエウさんから聞いた話。
キエウさんは日本に来る一年ほど前から奇妙な夢を見るようになったのだという。

気づくと彼女は、見たこともないビル街を歩いている。
それが夢だということは、キエウさんにはすぐわかる。
なぜなら空に浮かぶ月があまりに大きすぎるし、すれちがう人たちがみな人間というよりは人間のなりそこないのように見えるからである。
「怖い」とは思わない。けれど「引き返したい」。そう切実に思う。
が、その気持ちに反して、彼女自身は、まるで動く歩道に乗ってでもいるように、先へ先へと進んでいく。
そのうち彼女は一棟のビルの前に出る。
大きくも小さくもない、比較的、年季の入った建物で、それぞれの階には飲食店やクリニックといったテナントが入っているらしい。
そしてそのビルを目にした瞬間、彼女の心臓は鼓動をはやめるのだ。
ビルの正面入り口には高価そうなスーツを着た恰幅のよい中年男性が立っていて、彼はキエウさんのほうにやさしげな、しかしどこか含みのありそうなまなざしを向けている。
キエウさんには、その男がずっと待っていたのだとわかる。
キエウさんの胸に、男の切ない感情がダイレクトに伝わってきて、目覚めると彼女は布団の中で涙を流している。
そんな夢を、月に二、三度は見たのだという。

日本に来て以来、夢を見るペースは間遠になっているそうだが、かわりに人と話していたり外を歩いているときなどに、顔を、というより顔の後ろのほうをしげしげと見つめられるようになった。
彼女が問うと、ほとんどの人は「別に」とか「気のせいだと思う」と言葉を濁すのだが、何人かは首を傾げながら、
「あなたの後ろにビルが建ってる」
と言った。

ある日、キエウさんは新宿の地下街で、占い師とおぼしき女性から声をかけられた。
「あなたは今生において、とてもめずらしいものと縁を結んでいる。それはある程度距離をたもっていたり、他人からなにか言われたりするぶんには問題ないのだけれど、近づきすぎると手遅れになる。『引き返したい』と思えているうちに東京から、できることなら日本から離れたほうがいい。それはおそらく」
と女は両手で縦長の長方形を囲むような動作をして、
「このあたりに建ってるものだ」

キエウさんは来春から、西新宿にある某社に就職が決まっている。
いまのところ、帰国する気はまったくないということだ。